近所の中華料理屋

 もうずいぶん慣れてしまったけど、過剰な接客とかサービスを受けることがとても苦手だ。物事が過剰であるという線をどこに引くかは人によって違うけれど、僕は昔からそれがとても低い位置に設定されている人間らしい。

 どれぐらい苦手かというと、大学生の頃に女の子と二人で牛角の扉をくぐって「はい喜んでー!」という威勢のいい声を聞いた途端、不愉快になってすぐに店を出てしまったことがあるぐらい苦手だ。あらためて文字にしてみると、連れ立って飯屋に入る相手としてこれほど不安な人間もいない。でもしょうがないのだ。牛角はおいしいと評判だったので、僕だって食べてみたかった。おあいこだ。

 近所の中華料理屋の話だ。大森駅からすこし歩いたところにある、古い中華料理屋だ。
 
 僕は舌が馬鹿なので、昔から飯を食ってもうまいのかどうかがよくわからない。なにを食ってもだいたいおいしいと思うので、あんまり興味もない。食い物のことについて本とかテレビとかインターネットを見ながらどうこう話している人が隣にいるときは、静かに席を立って移動することにしている。

 そんな男の偏見で言うと、その店ではうまくもまずくもない普通のやきそばが出てくる。麺とキャベツがとても短く切ってあって食べやすい。ウスターソースみたいな水っぽいソースで味がつけてある。紅しょうががわりと気前よく乗っている(僕は紅しょうがが大好きだ)そんなところだ。他にもメニューはいっぱいあるが、やきそばしか頼んだことがないので知らない。

 しかしこの店はサービス・レベルが非常に適正なのだ。過剰さが一切ないし、不足しているところもない。入ってカウンターに座ると、おばちゃんが視線をテレビにやったまま水を出してくれる。おすすめのメニューを案内されたり、「ご注文はお決まりでしょうか」と急かされることはない。その空間をひとつのシステムとして捉えるならば、誰かが注文をせず雨宿りのために端の椅子に永遠に座っていてもエラーとして検知できないという致命的なバグを含んでいるといえる。もしこれがしゃれた喫茶店だとMacbookをもって居座る人間があらわれるかもしれないが、きっとそんなことをしたらスティーブ・ジョブズに呪われるだろう。これほどapple製品が似合わない空間もいまどき珍しいからだ。

 店内の配置も絶妙だ。カウンターテーブルの中に絶妙な角度で液晶テレビが配してあって、絶妙な音量で音が流れている。おかげで目のやり場に困ることがない。常連客がいるときは店主夫妻はとても楽しげに客と会話しているが、僕とは目があったことすらない。あまりにも注意を向けられないので、まるで自分がH.G.ウェルズの小説に出てくる透明人間になって誰か他人の家の食卓に紛れ込んだような錯覚に陥る場合もある。

 うまくもまずくもない普通の飯が出てきて、用があるときは呼んだらすぐに答えてくれて、金さえ払えばなにも考えずにただ座っていることができる。そもそも僕が飯屋に期待している機能はそんなものだ。終始ニコニコと笑顔を浮かべた異様に愛想のいい店員は別にいらないし、気さくで軽妙なトークを繰り出してくる妙にアットホームな若い店員もいらない(他人の食卓に上がり込んでいるみたいという意味では、ここも十分アットホームではあるけど)

 でもこの店で飯を食っていると、精神に不思議な回復作用のようなものが働く。コミュニケーションのためのコミュニケーションが一切存在しないせいかもしれない。コミュニケーションのためのコミュニケーションには、予算があまったから道路を掘ってまた埋め直す工事のような脱力感がある。飯時にまでそんな気苦労を背負い込むぐらいなら、多少味気なくても自動券売機で食券を買う方がまだいい。でももちろん、順番をつけるなら、必要十分なコミュニケーションを人間同士でとれるのが一番いいに決まってる。

 なにかのリハビリテーション施設とかにしたらいいかもしれない。今日もそこでやきそばを食った。紅しょうががうまかった。