ラブホテルの間にいるおじいさん

 しばらく前に今とは別の場所に住んで会社に毎日通勤していたころに、どうしてもラブホテル街を通り抜けないと駅まで到達できないルートを毎日歩いていたことがあった。21世紀にこんな建物が残っているのかと思うような、昭和の匂いのするラブホテル街だった。けばけばしいネオンの電飾がついていて、入口にのれんみたいな布がかかっていて、「なんとか物語」とかそういう名前のついたラブホテル群だ。いったい誰が入っているんだろう、と前を通りながらいつも考えた。とてもじゃないが若者は入れないだろう。では、今この瞬間にどういう人々が利用しているのかということを考えると、朝から気が滅入ってしまう。空が晴れていれば晴れているほどわびしい気持ちになる。止まっている車の数を数えてしまったりすると最悪だ。でも数えてしまう場合もある。最悪だ。

 そうやって毎日、朝のラブホテルの風景を観察しながら歩いていると、ホテルとホテルの間の狭い路地を塞ぐように黒い車が必ず止まっていることにある日気がついた。車は鼻先をちょうど路地の先頭ギリギリまで寄せて止まっていたので、いきなり飛び出してきそうで気になるのだけど、必ず車のエンジンはしっかりと切れていて動き出す様子はなかった。うしろから別の車がきたらどうするんだろうと心配もしたけれど、その車が動き出したところも止まったところも見たことはない。僕は規則正しい生活を心がけているので1分前後の誤差の範囲で毎朝その道を通過していた。一方でその車の方もこちらに負けないぐらい堅牢に時間の管理をしているらしく、その行動規則に例外はなかった。

 車の中ではいつもおじいさんが一人で運転席に座って煙草を吸っていた。はじめのうちは探偵ではないかと考えた。きっと浮気調査のためにここで張り込みをして、ホテルから出てくる人間の写真を撮ろうとしているのだ。そうに違いない。でもそれにしては車の止め方がちょっと目立ちすぎるような気がする。それにおじいさんの風貌は探偵という感じではない。どちらかというと小綺麗な格好をしていて、金持ちそうだった。さっさとお金を稼いでしまって仕事をリタイアして余生をすごしている、と言われるとしっくりくる。このあたりのラブホテルのオーナーが客の入り具合や人通りを観察しているのかもしれない、と僕は考えた。あるいは見た目に反して、ラブホテルに入っていく人々の顔を観察するのが趣味の卑しい性癖の持ち主なのかもしれない。しかしそれらの推測はどうもしっくりこなかった。かといって聞いてみるわけにもいかない。

 とにかく、毎朝決まった時間に車に乗ってラブホテルの間の狭い路地にやってきてエンジンを切り、寝床に入ったうなぎみたいに車を横たえてその中でじっとしているおじいさんの行動の理由を僕は毎朝考えた。しかし持てる論理と想像力を総動員しても納得できそうな理由のかけらも思いつかなかった。でも実際にそういう事象が起きているのだ。理由が推察できてもできなくても、事象を否定することはできない。つけくわえるなら、それはきっと生半可な理由ではないはずだ。雨が降ろうが雪が降ろうがその車は必ずそこに止まっていた。マジな話、レンタカーを借りてきて、深夜のうちに自分が先回りをしてそこに車を止めておいてやろうかと考えた。レンタカーの値段も調べた。会社を休んで双眼鏡をもって張り込んでみようかとも思った。でもそれはルール違反のような気がしたのでやらなかった。そのうちに転勤になって引っ越しをしたのだけど、いまだにあれはどういう原理によって僕の目の前に生じていた出来事だったのかがさっぱりわからない。

 友人とファミレスでぐだぐだと話をしているときに、「ラブホテルの思い出」というテーマか、あるいは「考えの異なる他人と衝突した時にどうやって気持ちを整理するか」というテーマに話が及ぶといつもこの話が喉元まで出かかるのだけど、どうやって話していいのかよくわからないのでいつもてきとうに別の話をしていた。しかしてきとうに別の話ばかりするのはよくないと思った。それでここに書いてみました。