ビニール傘という製品には根本的な問題があると思うのだ

壊れた傘 ビニール傘という製品には根本的な問題があると思うのだ。すぐこういうふうになっちゃう。ちょっと強い風が吹いたら、もう本当にすぐだ。さし方が悪いのだろうか? 僕もこれまで自分なりにいろいろと傘のさし方を試行錯誤してきた。でもだめだ。向上する気配がないどころかどんどん下手になっているような気さえする。子供の頃には傘を壊したという記憶はない。余計なことは考えずに無心でさした方がいいのか? でも風の強い日は同じように壊れた傘が道端にうっちゃってあるのを見かけるから、たぶん僕固有の問題ではないんだろう。きっと傘の方に主たる要因があるはずだ。

 ビニール傘の厄介なところは壊れたらゴミ箱に捨てるというわけにはいかないところだ。ビニール傘は壊れると一瞬にしてなんの役にもたたない上にとんでもなくガサばるゴミになる。それを廃棄するためには家に持って帰って(当然、雨が降っているのだから、新しい傘をもう一本買ってさして帰る必要がある)ビニールの皮みたいな部分を剥ぎ、燃えるゴミと燃えないゴミに分別して捨てないといけない。一人暮らしの男が夜中に玄関先で傘の皮を剥ぐというのはなかなかこたえる作業だ。人目をはばかり家畜の死骸を解体しているようで気が滅入る。しかもやる羽目になるのは決まって雨の日だ。

 安いビニール傘を使うのがいけないんだろうか? デパートで売ってるようなちゃんとした傘ならこんなに簡単に壊れないんだろうか? でもこれだけ負の経験を積み重ねると、高いちゃんとした傘を買う気にはどうもなれない。どうせすぐ壊れちゃうような気がする。ただ、道端に壊れて捨ててあるのはビニール傘ばかりだから、もしかするとちゃんとした傘を買えばそんなに簡単には壊れないのかもしれない。あるいはただ単にビニール傘を使っている人の母数が多いせいで捨てられている本数も多いだけなのかもしれない。
 
 とにかくこんなに壊れやすくてものすごい大きさのゴミになるものが一般的なアイテムとして大量に生産・流通しているというのはひどく間違った状態なのではないだろうか。こうしている間にもどこかの森の木がばっさばっさ切られているのではないだろうか。地球はどんどん温暖化しているのではないだろうか。今日は1日で2本壊した。あまりにも風が強かったからだ。ビニール傘は壊れるとうまく丸められなくなる。どんなにがんばって丸めても、会社を辞めるときに送別会でもらう花束ぐらいの大きさに膨らんでしまう。だから仕方なく両手に壊れた傘を持って濡れて帰って来た。3本目を買う気にはなれなかった。壊れた傘は2本とも玄関先で皮を剥いだ。誰かなんとかしてくれ。日本の傘担当は誰なんだ。

漫画の記憶

 シャンクスが山賊に絡まれて頭から酒をかけられるけどそれをいなすシーンがとても好きだ。ワンピースの一番はじめの話だ。高校の運動会のときに誰かが観戦席に持ち込んでいた単行本が回ってきて、8巻ぐらいからカウントダウンで逆順に読んだ記憶がある。そんなふうに読みたくなかったのだけど、運動会が暇すぎて気が狂いそうだったのでそうせざるをえなかったのだ。当然の事ながら、僕は普通、漫画でも本でも1巻から順番に読むように努力する。でも、どうしようもない事情があって話の途中からそこに至るまでの経緯を推測しながら読むというのも、やり終わってみるとなかなか悪くない体験のように思う。旅先で暇をもてあましてキオスクで買ったジャンプで読んだ漫画もその話だけいつまでも妙に憶えていたりする。

 kindleを買ってから漫画を気軽に買うようになったので、途中で読むのを止めていたワンピースをまた読み始めたのだけど、仲間が増えるたびにビールで乾杯するのがどうにも興醒めでまた読むのをやめてしまった。なんで漫画の中でまで歓送迎会みたいな面倒事を見せられなきゃいけないのだろう。でもみんなワンピースが好きみたいだ。みんな歓送迎会でビールでカンパイするのが好きだからワンピースが売れてるのだろうか。「こいつらもこいつらなりに人付き合いとかいろいろ大変なんだな」と共感しているのだろうか。よくわからない。

 ジョジョを最初に読んだのは子供の頃に誰かの葬式に連れて行かれたときだった。そのとき買い与えられたジャンプにはヴァニラ・アイスにアブドゥルが殺される話が掲載されていて、なんだかわけがわからない気分になった。「アブドゥルはこなみじんになって死んだ」というヴァニラ・アイスの台詞と、「シューシュー」という肉の焦げる音の書き文字が添えられたアブドゥルの切断された両腕は鮮烈に憶えているけれど、自分が参加したのが誰の葬式だったのかは憶えていない。高校の修学旅行に行くとき友達が買ってきたジャンプには、るろうに剣心の薫が殺される「人誅」のシーンが掲載されていた。見開きでヒロインが殺されている絵を朝の新幹線のホームで見た。それを買って来た友達はコンビニのビニール袋にパンツと歯ブラシだけ入れて片手に持っていて、もう片手にそのジャンプを持っていた。その荷物で二泊三日をやりすごすというのはなかなかいい度胸だ、と思った記憶があるが、その修学旅行で自分がどこへなにをしに行ったのかは全然思い出せない。僕の記憶力は斑気がひどすぎる。

紫色の装丁の本

 本はまずハードカバー版で出版され、しばらくすると文庫版が売られるようになる。そういう世の中の仕組みを僕がまだ知らなかった子供のころに、近所の図書館で二冊の本を読み比べた記憶がある。装丁は異なるが、どちらも同じタイトルの二冊の本。題名は忘れてしまった。文庫版の方を途中まで読んでいたのだけど、別の本棚でハードカバーの同じ名前の本を見つけたので、いったい中身にはどういう違いがあるのかを調査してみようと考えたのだった。

 もちろん文庫版が出版されるときにいくつか修正が施される部分はあるだろうし、あとがきなどが増えていたり挿絵が変わっているということはある。とはいえ、話自体が大きく変わってしまうようなことはない。当たり前だ。しかしどういうわけか、その時に手に取ったハードカバー版の内容は途中からまったく別の話だった。どういうふうに異なっていたのか具体的には思い出せない。船が出てくる冒険物の小説だったような気がする。とにかく本のちょうど真ん中あたりで、ハードカバーと文庫版で話の筋ががらりと変わっていたのだ。その本は友達が勧めてくれた本だったので、読み終わったあとになにか感想を言わなければならない。でもその友達がどっちのバージョンを読んでいるのかわからなかった。それで結局、共通している前半部分の内容を口にしてごまかした。

 そういうことがあったので、それから数年の間は同じ本でもハードカバーと文庫版では内容が全然違う物だと信じていた。きっと出版したあとに一度だけ内容を変更するチャンスが著者には与えられるのだろうと考えていた。そうじゃないことにはっきりと気がついたのは高校生になってからだ。あの本はいったいなんだったんだろう。ハードカバーの方は紫色の装丁だった。百人一首を入れておく箱みたいな、和紙みたいな装丁だった。