お辞儀をする猫

お辞儀をする猫 家のまわりにたくさん猫がいて、だいたい日に一度は見かける。ぶらついている猫をさわってみたいのだけどうまく接触できたためしがない。こっちが猫の存在に気がつくとむこうもこっちに気がついて、しばらく見つめあうことになる。僕がそのまま動かないと猫も動かない。にらめっこになる。

 猫というのはすごく忍耐強くて(おそらく)急ぎの用事もないのでだいたい僕の方が根負けしてさわってみようと近づくのだけど、猫はそういう人のあしらい方に慣れていて、僕が近づく気配を出すと慌てずにゆっくりとどこかへ逃げて行ってしまう。悔しい。

 でも一度だけ、夜中に近所の緑地をジョギングしていとき、足がつったのでベンチで休んでいたら草むらから出てきた猫たちが集まってきたことがある。人懐っこいとかいうレベルではなくて三匹の猫がなんの迷いもなく僕のナイロンのジャージに爪をたてて胸のあたりまでのぼってきたのだ。ニーニー言いながら。そういえば以前、そのベンチで猫に餌をやっているスーツ姿の中年男性を見たことがあった。会社帰りに緑地の猫に餌をやる人がいるのだろう。だからたぶん、猫は僕に食べ物をもらえることを期待したのだと思う。もしかするとその猫たちは餌をもらうことに慣れてしまったせいで、うまく自給自足することができなくなってしまったのかもしれない。

 こっちに近づいてきたときはちょっと嬉しかったのだけど、切実な鳴き声をあげながら抱きつかれるとなんだか悲しくなった。普段はなかなかさわらせてもらえないので「猫はどんなときでも毅然としている気高い生き物なのだ」と僕は猫に対して期待しているのだ。だからそんなふうに安売りされると白けてしまう。緑地の街灯の下でよく見ると、三匹の猫は耳や足を怪我していて、そこに血と膿が溜まっていた。野良猫に餌をやるならちゃんと飼わないといけない。飼わないなら餌をやってはいけない。僕は病気がうつると嫌なので猫をふりほどいてベンチから逃げてきた。こっちはジョギングしに出てきただけで、まさかそんなことになるとは思っていなかったから親切心をぜんぜん用意していなかったのだ。病気、こわい。

 また別の日、家のドアの前に猫がいた。いつものようにすこし離れたところでじっとしていた。ただいつもと違って、なんとなくその日の猫は餌をほしがっているよう見えた。僕は「野良猫に餌はやらない」と決めたのだけど、その猫はこっちにすりよってくる様子はなかったし、僕も暇だったのでためしに台所から煮干しを一本もってきた。それをすこし舐めて湿らせて軟らかくし、僕と猫のちょうど中間地点に放り投げてみた。猫はとことこ煮干しの落ちた地点まで歩いてきて、おいしそうにそれを食べた。食べ終わった猫はぺこぺこと丁重にお辞儀をした。僕は「猫、すげえ」と思った。思ったし、一人でそう言った。

 さっきよりも半分だけ距離が縮まったし、煮干しも食わせてやったので「これならさわれるかもしれないな」と思ってゆっくりと近づいたのだけど、やはり猫は逃げてしまった。