独り言をいう老婆

 近所の公園でぼんやりしていたら噴水を挟んで反対側のベンチに座った老婆が独り言を言っていた。こっちまで聞こえるほど大きい声で言っていたわけではない。手話で言っていたのだ。僕は大学のサークルで手話をやっていたことがあるので手話を読むことができる。だから水音に邪魔されずそれが読めた。手話は「てにをは」に相当する表現があまり明確ではなく、文脈や役割を空間に配置することによって単語間の意味をつなぐのだけど、距離が遠くて細部は読み取れなかった。単語を羅列するとだいたいこんな感じだった。

 「記憶」「とても」「記憶」「あなた(ここで噴水のそばにいた少女を差した)」「たくさんの場所、記憶」「母親、一緒に」「記憶」「しかし」「水、記憶」

 記憶が多かった。あるいは思い出か。単語を文にしようと考えてみたがうまく意味がまとまらなかった。独り言だから意味なんてなかったのかもしれない。それとも独り言じゃなくて手話の練習をしていたのだろうか。白髪が腰まで伸びたお婆さんだった。髪型だけを見ると路上生活者の風情だけど、着ている服や鞄は奇麗で高級そうな物だった。世間には素性のわからない人がたくさんいる。

 それはそれだけの話なのだけど、22歳の頃にやはり見知らぬ老婆から「キサマの十年後が見てみたいもんだな」と唐突に声をかけられたことをふと思い出した。僕が知る限りでは「キサマ」という二人称を使う人間はデビルサマナーの葛葉キョウジとこの老婆だけだ。踏切の真ん中ですれ違ったときだった。夕方だった。僕は大学生で、ジーンズにサンダルを履いていて、レンタルビデオ屋で借りたライフ・イズ・ビューティフルのビデオと夕食の唐揚げ弁当を手に持って部屋に帰るところだった。

深夜の工場に連れて行かれる話

深夜の工場に連れて行かれる話 日常的に誰かと飯を食ったりどこかへ出かけたりする習慣をもたない。人と会って飯を食ったりするのは非日常的な場合に限られる。なにかしら個人的に心なり状況なりが振れていることがあるから友人に会って飯を食ったりどこかへ行ったりするのであって、その逆じゃない。暇だから人を集めてゴルフをやってみても終わったあとになにかが前進しているようには思えないのだ、いまのところは。腕を競うというよりもみんなでなにかを確認する作業をやっているように思えるのだけど、なにを確認すべきなのかがよくわからない。そうすると居場所がない。居場所がないと僕は困る。みんなも困る。そういう状態が経験的に身に染みているのでもう端から断ってしまう。

 世の中の会合に日常的な会合と非日常的な会合の二つがあるとすれば、僕は前者に参加せず、後者の方に進んで乗る。不思議なもので、ゴルフの誘いに乗るタイプの人は非日常の匂いが含まれている誘いには乗らない。たとえば深夜、唐突に誰かからメールが飛んでくるような種類の誘いにはゴルファーは参加しない。もちろん突然の誘いだから仕事や家庭の都合と調整をつけるのが難しいのだろうと思う。誘う方もそういうのはわきまえているので断ったって後腐れはない。でもそれだけが理由じゃないような気がする。きっとよくわからないものに対する嗅覚が鋭いんじゃないだろうか。ちゃんとメールの文面からそういう匂いを嗅ぎ分けるのだ。

 で、僕は僕で匂いを嗅ぎ取るのだけど、そういうのに乗ってしまう。そういう匂いのする会合こそが本当に意味と目的のある会合だと考えているので、必ず乗る。棲み分けがしっかりできている。役割分担。餅は餅屋。そういうことを繰り返していると、なぜだかわからないが深夜の工場に車で連れて行かれることが多いのである。こう書くとなんだか怖いな。別にそこで殴られたり沈められたりするわけじゃなくて、「ちょっと深夜の工場にドライブに行かないか」と誘われることが多くなるのだ。「適当にドライブに行かないか」と言われて車を走らせているうちにいつのまにか深夜の工場に向かっているというパターンもある。とにかく結果的に僕は工場に連れて行かれる。深夜の。

 一時期、工場の写真を撮影するのがちょっとブームになっていたような記憶がある。写真集を本屋で見た気がする。そういう背景があって行き先に工場が選択されるのかもしれない。そのブームがなかったとしたら「深夜に工場に行こう」というのはもっと怖い誘いに聞こえるかもしれない。たとえば「森に行こう」と相手が言い出したら怖い。でも「深夜の森ブーム」が起こったあとでなら、深夜の森いいね、なかなか洒落ている、と思うかもしれない。そういうこと。なんにしろ、僕は工場が好きなので結構なことだ。工業地帯で生まれ育ったので落ち着く。誰もいないし、大きな人工物がちゃんと動いている(ように見える)ところがいい。けっこう近くまで寄って行って見れるところもいい。パイプを触れたりもする。動物園で象を見るのもいいけど、ダイナミズムでは工場も負けていない。

 それで工場をうろうろと徘徊して、ラーメン屋なりファミレスなりで飯を食って帰ってくる。そんな経験がこれまでに四回あった。直接つながりのない四人の友人が、僕を夜中に召還して深夜の工場に連れて行ったのだ。その状況にはもうひとつ共通点があって、四回とも特に会合の趣旨や動機については触れずにただくだらないことを喋りながら工場に行って帰ってきた。でもあとになって(場合によっては年単位であとになって)誘った相手が「実はあのときにはこれこれこういう個人的な問題を抱えていて、どうすべきかちょっと悩んでいた」みたいなことを言うのだ。そのときに言えよ、と思うのだけど、誰もそのときには言わない。みんなあとになってから言う。からくりがわからない。世の中にはわからないことがたくさんある。

電子レンジもってない

 「電子レンジをもっていない」と誰かに言うとかなり高い確率で驚かれるということを発見した。しかもすごく驚かれる。ときには電子レンジについてのお互いの考え方の違いから、ちょっと口論めいた状況になりさえもする。電子レンジは世の中にすごく浸透しているようだ。

 僕は間違えてホームサイズの背の高い冷蔵庫を買ってしまったので部屋に電子レンジを置く場所がない。床の上とか服入れの上に置くこともできるのだけど、やはり電子レンジは冷蔵庫の上に置いておくのが機能的に考えて妥当だと思う。そういう空間的事情から購入を保留しているうちに時が矢のごとくガンガン流れていって電子レンジのない生活にすっかり馴染んでしまった。電子レンジ不在の生活の中に長らく身を置いてあらためて考えてみると、電子レンジというのはけっこう奇妙な装置だと思う。原理がさっぱりわからない。原理がわからないということで言えば冷蔵庫が冷える原理だって電話で誰かの声が聞こえる原理だってわからないけど、電子レンジのわからなさはそういうわからなさとはちょっと質が違う不気味さがある。物を冷やそうという欲求から冷蔵庫が作られるのは、まあわかる気がする。電話も受話器の形を見れば言わんとしていることが読み取れる。ところが電子レンジは物をあたためるという目的に対してなぜそういう形で解決をもたらそうと思ったのかが全然わからない。右足を動かそうと思ったら左手が動いているような、入力と出力のちぐはぐさを感じる。箱というところが手品的なのか。あたため終わってすぐ中に手を入れてみても内部の空気は全然あたたかくないところが不気味だ。スイッチを入れると内部がライトアップされるところも不気味だ。あの光であたためているわけじゃないんだろうから、あたたまっていく食品の過程をよく見せるためだけに光をつけるんだと思うんだけど、なにか悪趣味な機能のように感じませんか。僕は感じる。種も仕掛けもありませんよ、と言われているような気がして。電子レンジに。電子レンジに?

 この「電子レンジもってない話」をすると、僕と個人的に仲がいい人間ほど「電子レンジがない生活なんて不便すぎる。買った方がいい。今すぐにでも」と強く勧めてくるのも不思議な現象だ。その勢いに面食らって自分が怒られているような気分になることもある。電子レンジと親密さに相関関係があるというのはなかなか興味深い。たぶん一般性はないと思うけど、僕の場合で言うと、相手の「電子レンジもってない反応」の温度と僕との親密さがかなり正確に比例しているような気がする。

 電子レンジをもたない生活のよい点を紹介すると、食事の作り置きや冷凍食品に対する依存が自然になくなる。量も一度にたくさん作れないので、食事をちょうど一人分だけうまくつくるスキルが身につく。習得が難しく実用的だが、わびしいスキルではある。