アンテナがゆるゆるだ

 はじめてノイズキャンセリング機能のついたウォークマンを買って電車の中で音楽を聴いたときに、そのあまりの性能のすごさに鳥肌が立った。思わず「これはすごい発明だ」とつぶやいたつもりだったが、その声もかき消されてしまったので口にしたのか頭で考えたことだったのか区別できなかった。僕はうっとりしながらレイ・ハラカミの音楽に身を委ねた。でも二駅ぐらい電車が走ったあとでよく本体の表示を見てみるとノイズキャンセリング機能はOFFになっていた。

 それからずいぶん時は流れた昨年末、僕はBOSEのスピーカーを買ってきた。PCから音楽を流すときにすこしはいい音で聴こうと思ったのだ。ケーブルを接続すると部屋に重低音が鳴り響き、拍手の音や歓声が流れてきて、まるで突然ライブ会場に放り込まれたような気分になった。クラシックを流せば舞台のどのあたりでバイオリン奏者が演奏しているのか、その立ち位置まで見えるような気すらした。「やはり左右に二つスピーカーがあると音の立体感が違うな」と思ってにこにこしながら一週間過ごしたあとで、掃除をしながらふとスピーカーの裏を見ると片方のプラグが抜けていて右側からしか音が出ていなかったことを発見した。

 また別の日、気まぐれに奮発して高い紅茶の葉っぱを買ってきた。家についてすぐに淹れようと思ったのだが、ちょっと手の離せない用事があったので、友人に「これは高級な葉っぱだからきちんと時間を測って淹れてくれ」と頼んで淹れてもらった。用事をすませてソファに腰掛けると目の前に紅茶の入ったマグカップが置いてあった。こころなしかマグカップのスヌーピーの笑顔も二割増に見えた。あまりの香りのよさに「これは癖になってしまうかもしれんな」とうなった。口をつけてみると喉から鼻へと深みのある味わいが駆け抜けた。自分でも忘れていた、初めてアルコールを口に含んだときの古い記憶が自動的に脳裏に浮かび上がってきた。それぐらい衝撃的な味だった。淹れてくれた友人にそれを説明すると「高かったやつはこっちだよ。それは私が飲もうと思っていた100袋で500円の業務用みたいなティーバッグだよ」と言われた。

成人式と東京タワー

tower そういえば東京タワーに上ったことがない。近くまで歩いて行って見上げたり、ビルの窓から夜景として眺めたことはあるけど、実際に展望台に上がったことがない。この前久しぶりに会った友人とスカイツリーに行ってみようかという話をしていたのだが、順番としては先に東京タワーに行くべきであるような気がした。ドラクエを4からやってももちろん楽しめるが、選択できる状況であれば1からやるのが筋道というものだろう。

 だからもしその出かける約束が自然消滅しなければ、次にその話題が出たときにはまず先に東京タワーに行くことを提案しようと考えつつ、印刷をミスした紙の裏に東京タワーの絵を描いてみた。描いてみると、自分がボールペンを使って絵を描くのが初めてだということに気がついた。僕はたしか大学生になった頃からボールペンを使い始めたので、もう十年近く趣味的な絵を描いていなかったらしい。なんだか体のどこかの筋がひどく硬くなって縮こまっているのを発見したような気がした。とにかく、記憶の中の東京タワーを思い出しながら絵を描いていたらいつのまにか祝日(成人の日)が終わりかけていた。珍しくテレビをつけてみると成人式の映像が流れていた。テレビの中にも窓の外にも雪が降っていた。雪の降る成人式の映像と自分の描いた絵をしばらく見比べていると、自分はこの十年のあいだ雪に降りこめられた暗い部屋の中で東京タワーがどんな形なのかを想像しながらずっと絵を描き続けていて、ようやく描きあがったのがこの絵であるような気分になった。

 でももちろんそんなことはないのだ。僕はgoogleの画像検索で実物の東京タワーがどんなものだったか調べてみた。窓を描いてしまったのと、足を二本しか描かなかったところが問題だったようだ。僕は納得してブラウザを閉じた。紙はまるめてごみ箱に捨てた。

電車の席

 電車に乗ると五人掛けの座席にちょうど五人が腰掛けていた。車内はわりと空いていて、座れこそしないものの立って本を読むにはスペースに余裕がある。都内の通勤事情としては上等だろう。この時間の電車は運がよければ座れる。同じ時間の同じ車両に乗っても、座れるかどうかは運次第なのだ。今日は運がよくなかった。でも次の駅に到着すると、一番左端に座っていたお婆さんが降りた。自動扉が開いている時間内にそこまで辿り着けるかどうか不安になるぐらいゆっくりとした動作でお婆さんは移動したが、とにかく降りて行った。それで端の席が空いた。僕は読んでいた本のページに栞を挟んで、よろこんでその席に座ろうとした。
 
 
 

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 でも僕が席に向かって二歩ぐらい進んだところで、隣に座っていた灰色のスーツのおじさんが一つずれて端の席へと移動した。眠っていたように見えたけれど起きていたらしい。もしくは眠っていてもそういうことができるのかもしれない。誰だって端が空いていたらそうするだろう。僕だってそうする。おじさんもそうした。
 
 
 
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 あらためて辺りを見回すと、その車両に立っているのは僕ひとりだけだった。僕はすでに端の席に向かって歩き始めてしまっていたので、慣性の法則に逆らって足を止めるという不自然な動きをするにはなにか正当な理由が必要なように思えた。特に理由は思いつかなかったので、僕はそのまま少しだけ方向を変えて元々おじさんが座っていた席に座った。
 
 
 
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 それで五人掛けの席はまたいっぱいになった。幸運にも腰を下ろせた僕は栞のところから本の続きを読み始めたが、なぜか内容がうまく頭に入ってこなかった。