ピアニスト

 結婚ラッシュだ。また友人の結婚式に行った。出不精の僕が部屋から出る時にはいつも誰かと誰かが結婚している。

 結婚式の前後になるとよくお金の話が聞こえてくる。たとえば外人の神父さんを呼ぶといくらかかるとか、賛美歌の生合唱を頼むといくらかかるとか、そういうオプションがいろいろあるらしい。その話を聞いてから、結婚式に行くたびにこれまで参加した結婚式との差分がどこにあるのかを見比べるという習慣が身についてしまった。それで会場を眺めていると、今回は音楽が生演奏であることに気がついた。僕の席の横にグランド・ピアノがあって、その前にピアニストが座って鍵盤を叩いていた。それは僕のすぐ隣だったのだが、彼女がいつの間に会場に入って来てそこに座ったのかはわからなかった。考えてみれば最初からずっとそこにいたような気もした。ピアノと同じ黒い色の服を着たその女性はずいぶん痩せていた。そういえば太っているピアニストというのは見たことがないなと思いながら、僕はそのピアニストをしばらく観察することにした。
 
 最初の曲を弾き終わると、ピアニストは両手を膝の上にそろえて置き、鍵盤のちょうど真ん中あたりに視線を落としたまま身じろぎもせずにじっとしていた。式場では誰かが感動的なことを言ったり、みんなが拍手をしたりした。親族の方が笑ったり泣いたりして、ごちそうの乗ったお皿が次から次へと運ばれてきてはさげられていった。そのあいだずっとピアニストは中央のドの音の白鍵あたりに視線を落としていた。もしかするとドではなくてファかもしれない。ピアノを弾いたことがないのでなんの音が真ん中にあるのかは知らない。とにかく真ん中あたりだ。僕は隣に座っている友人が拍手をしたときにだけ一緒に手を動かしたが、あとはずっとそのピアニストを見ていた。周囲で起こっている事象とはすこしだけ異なる位相にピアニストはいた。式の最中は黒子に徹するという規則みたいなものが契約に含まれているのかもしれない。あるいは彼女が自分自身で定めた仕事上のポリシーかもしれない。

 最初は「きっと居心地が悪いんじゃないかな」と思っていたのだが、しばらく眺めていると、無反応でお祭り騒ぎの中にただ存在しているというのはなかなか悪くなさそうに思えた。笑ったり手を叩いたりしなくても誰もピアニストのことを失礼だとか空気が読めないやつだとは思わないからだ。それにしても、いったい彼女は鍵盤の上になにを見ているんだろう。まさかレーニンの顔が見えるわけでもあるまい。とにかく、周りの空気がどのように変化しても彼女は石のようにびくともしなかった。咳払いをしたりとか、トイレに立ったりとか、暇つぶしの文庫本を取り出したりとか、思い出し笑いをしてしまうとか、一杯ぐらいシャンパンを飲んだりするかと思って僕はずっと見ていたが、とうとうピアニストは動かなかった。しかし時おり演奏が必要なタイミングが来ると彼女はちゃんと演奏を始めた。誰がどこから合図を送っているんだろう。僕はその疑問について隣の席の友人にたずねてみようかと思ったが、式はそのとき静かにしなければいけない場面だったのでなにも言わなかった。

 きっとピアノの生演奏にも値段がついていて、頼むには料金がかかるんだろう。そうすると、ピアニストという職業は結婚式やパーティから依頼を受けて、腕だけ持ってそこへ行って演奏してお金を稼いで暮らしているのだろうか。昔の歌ではないけれど、もしもピアノが弾けたならそんな生活がしてみたい。

 結局、僕はほとんどずっとピアニストを見ていた。式の途中で前に出ていった誰かが余興でハーモニカの音を鳴らしたときだけピアニストはちらりとそっちの方を見たが、すぐにまた鍵盤の上に視線を戻した。

湯たんぽをもてあます

 この冬のいつだったか、あまりにも寒い日があったので湯たんぽを買った。暖房ばかりつけていると頭がぼんやりするし、たまにはそういう古き良きグッズを使うのも悪くないと思ったのだ。買って帰ってお湯を入れて膝の上に乗せてみると暖かかった。悪くない。

 暖まりながら説明書をぱらぱらとめくると使用上の注意が書いてあった。使用する際には低温火傷に注意しなければいけないようだ。使い方の説明は容器にお湯を入れる絵と蓋を閉める絵の二枚が淡白に並んでいただけだったが、その注意事項の部分の記述は長々と、ほとんど病的といっていいほど執拗に、あらゆる語彙を総動員していかに低温火傷がおそろしいものかということが書かれていた。ページは下手なハードボイルド小説顔負けの付帯事項で埋め尽くされていた。ただし、ただし、ただし。びっしりと小さい文字が並んだ紙はそれ自体がなにか強力な負の力を発しているみたいに見えた。それで気になってインターネットで調べてみると、低温火傷の恐ろしい話が山ほどでてきた。だんだん湯たんぽを乗せているふとももの皮膚が痛痒くなって来たような感覚があったので、僕は湯たんぽをそっと膝からおろして机の上に置いた。まあちゃんと気をつけて使えばいいさ。よく読んでから使おう。

 しかしどのように気をつければ良いかということになると、その説明書にはどうにも歯切れの悪い記述しかなかった。考えてみると、たしかに湯たんぽの運用には一般化するには難しそうな変動要素がいくつもあった。何度ぐらいのお湯を入れるのか、どれぐらいの時間使うのか、肌と湯たんぽを隔てるものはなにか(タオルなのか、タオルだとすればどれぐらい厚いタオルなのか)、そして使用する人の肌の弱さはどれぐらいなのか。結局読み終わってもどのように使えば安全であるのかがよくわからなかった。わかったのは、これは try & error のアプローチが取りにくい類いの問題であるということだけだ。失敗しないように気をつけないといけないし、もし失敗したら取り返しが使えない。僕は低温火傷というものをそのように理解した。ひととおり悩み終えた頃には机の上に置いた湯たんぽはすっかり冷えていた。

 結局、湯たんぽは一度お湯を入れたっきり使わなくなってしまった。湯たんぽは僕の生活のサイクルにうまく入ってこなかったのだ。残念ながらこれから先も使われないだろう。もしかすると「せっかく買ったんだから」と情けをかけてもう二回ぐらい使ってみるかもしれないが、そんな使い方をされるのは湯たんぽだって癪なはずだ。湯たんぽにも湯たんぽなりの誇りがきっとある。しかし、だからといってすぐに捨てる気にはなれない。なにしろまだ一回しか使っていない。

 それに湯たんぽという言葉を聞くと、僕の頭には、足が遅いせいでいつも学校でいじめられて泣いている小学校低学年の男の子の姿が思い浮かぶのだ。なんの因果でそんなことになってしまったのかよくわからないが、「湯たんぽ」という名称のラベルを頭の中の変なところに貼ってしまったらしい。困ったことだ。そうするといよいよ捨てるのが忍びなくなってくる。だからといって誰か知り合いに譲り渡すというのもなんだかお互いに薄気味が悪い。三十路の男が湯たんぽを誰かに譲る話なんて、想像しただけで日本の不景気に拍車がかかりそうだ。

 そんなわけで、もう二ヶ月ぐらい湯たんぽをもてあましている。どうしたらいいのか見当もつかない。玄関の靴箱のそばに置いてあって、紺色のセーターみたいなニットにくるまった湯たんぽはいつもそこで肩身が狭そうにしている。がんばれよ湯たんぽ。大人になったら走ることなんかねえよ。お前だってそのうち足が遅いことなんかすっかり忘れて、インテリの匂いをちらつかせて女を口説くような嫌な男になるに決まってるんだから。

赤いクレーン

 都内にあるビルの休憩室で時間をつぶさなければならない事情があって、窓際の椅子に座って外を眺めていると外で大掛かりな工事をしているのが見えた。工事の中心地点には一本背の高いクレーンが立っていた。いかにも工事現場らしいくすんだ赤色のクレーンだ。僕がいる部屋はビルの8階にあったのだが、クレーンにもちょうど同じぐらいの高さの位置に運転席みたいなものがあり、そこからクレーン本体と同じぐらいの長さの腕が右に向かって伸びていた。先端からはまっすぐ下にワイヤーが伸びていて、地面に近いところで何本か鉄骨が吊られている。なにを作っているのかはわからないし、クレーンの役割もわからないけれど、端から見ていると誰かが大掛かりなUFOキャッチャーで遊んでいるみたいに見える。
 
 窓の外から目を離して携帯電話を操作し、コーヒーを一口飲んで、机の隅に置いてあった旅行のパンフレットをいくつかめくってみて、それからもう一度窓の外を見るといつのまにかクレーンが左を向いていた。さっきとはまったく逆方向だ。そんなに大きな物がそんなに早く動くということが実感できなかったので僕は自分の記憶を吟味してみたが、やはりさっきまでクレーンは右を向いていたように思えたし、僕が目を離していた時間は二、三分ぐらいだった。

 あらためて操縦席のところを見ると小さく人影があった。操縦席はなかなか広く、ちょっとした喫煙室よりも広い空間がありそうだ。内部は暗くてよく見えないが、本棚やダイニング・テーブルがあってもおかしくないぐらいの広さに見える。きっと一人きりだろうし、入ってしまえばなかなか落ち着けそうだ。もし僕があそこで仕事をすることになったら、退屈なときには大声で歌を歌ってみたりするかもしれない。でもクレーンには気の遠くなりそうな長さの梯子が地上からその運転席までまっすぐに伸びていて、どうやらそれを使わないと運転席には入れない仕組みのようだった。あの運転手にもし子供がいたら、子供の写真をお守り代わりに懐に入れて毎日上り下りしたりしているのだろうか。微笑ましいのか憂鬱なのかよくわからない話だ。

 僕と運転手はどちらも地面からの高さがちょうど同じぐらいのところにいたので、僕はためしに自分が手元のレバーを操作して地面に置いてある鉄骨を引っ張り上げるところを想像してみたが、うまく想像できなかった。実際に自分があの操縦席のレバーを握って鉄骨を引っ張り上げたとしても、実感としてその手触りを感じられるようにはどうも思えない。運転席とその鉄骨の間にはそれぐらい距離があった。しかしもちろんその赤いクレーンは操縦席で操縦されているはずなので、そこに実感が湧かないというのはおかしいのだ。想像力が事実に追いついていない。それは「コントローラーを操作してテレビ画面の中にいるCGの大きなモンスターを倒すことに実感が湧かない」という話とはわけが違うのだ。僕は自分がクレーンの操作を誤って鉄骨を遥か下の方に小さく見える人にぶっつけてしまうところを想像したが、そんなひどいことになったとしても自分の手と出来事のあいだの連続性を把握する自信はなかった。距離や大きさというものには注意が必要だなと僕は思った。

 話は変わって、大学の友人が電車の運転士をやっているそうだ。僕がいつも乗っている電車を知り合いが運転しているかもしれないというのは妙な気分だった。乗っている人間は電車を運転している人間がどこかにいるなんて考えもしないのだ。端の車両に乗ったときにガラス越しに運転席を覗き込んでみたが、毎日毎日一日中そこに座っているというのがどんな人生であるのかまったく想像できなかった。すくなくとも地下鉄よりは地上を走る電車の方が気持ちはよさそうだ。でもどちらにせよ、机の上にペプシのおまけについてくるおもちゃを並べてコレクションしたりはできそうもない。

 ただ、クレーンや電車みたいなものを動かせるというのはなかなかわかりやすい大人の形のように思えた。自分は一人前の大人であり、毎日こういう仕事をしているのだ、ということを多くの言葉を費やして説明する必要がない。クレーンがなにをつくっているのか知らなくても、クレーンを動かしている姿というのはそれだけで十分に仕事のように見えるからだ。子供や家族に仕事のことを説明する義務をもたない僕も、自分自身に対して自分の仕事を説明しなければいけない日がある。そういうときに自分がクレーンや電車を動かすことができればもう少し話はわかりやすいのだが、あいにく僕の仕事はそのように外面的な特徴を備えていない。キーボードを叩くのが人よりも多少速いということを持ち出すぐらいしか手はないのだが、僕は昔からタイピングが速かったので、その事実はあまり役に立たない。

 そのあたりまで考えたときに「なにを考えているんですか」と隣に座っていた後輩に聞かれたのだけど、この一連のことをどのように説明すればいいかよくわからなかった。それで僕は「旅行に行こうかと思っていてね」と言って置いてあったパンフレットを適当にひとつ示した。後輩はその旅行のパンフレットに興味をもったようだった。どこかの島と青い空の写真が表紙のパンフレットだった。