隣の部屋の窓の魚のシールと手頃な大きさのスパナ

 僕が住んでいる部屋は隣のマンションと隣接した位置にあって、窓を開けるとすぐ隣の建物がある。手を伸ばせば届く、とまでは言わないがなかなか近い距離だ。すこし角度がずれてはいるのだが、隣のマンションにも同じような位置と高さに窓があるので、こっちが意識的に覗き見をするつもりがなくても普通に暮らしていると隣の部屋の中が窓越しに目に入ってくるということがある。

 そうなのだけど、隣の部屋の住人はその窓もカーテンも一切開けない。どういう事情があるのかはわからないけれど、本当に一度も開けないのだ。人が住んでいないわけではない。外へ出かけるときにベランダを見ると洗濯物が干してある。休みの日になると等間隔にワイシャツをきれいに並べて干してあるから、きっと律儀な性格の人なんだろう。洗濯物の干し方にはその人の生活の緩みなさが如実にあらわれると僕は思う。洗濯物を干していない時には物干し竿がはずされて立てかけてある。そういう人物なのだから、日常的にカーテンと窓を開けて部屋の中を換気するのが自然なように思えるのだが、なぜかそれはしないのだ。実に2年間、すくなくとも僕が目撃する範囲で、その窓は一度も開かれなかった。僕は家にいるときはいつもカーテンを開けているので、一度ぐらい隣のカーテンが開いているところを見かけてもよさそうなものだ。緑色のなんの特徴もないカーテン。でもひとつだけ目を引くところがあった。窓ガラスのすみには教会のステンドグラスみたいな色合いの魚のシールが貼ってあった。きっとそれは隣人の彼女が部屋に遊びにきたときに貼っていったシールなのだろうと僕は毎朝想像した。たぶん彼の生活にうるおいをもたらすためにその魚のシールは貼られたのだ。でもそれは彼から見るとカーテンの裏側に隠れてしまったので、結果的にその平面の魚を眺めるのは僕と、マンションの間の砂利道を通り抜ける猫だけになった。ここ二年間、彼はその魚のシールを見ていないはずだ。それは隣人として保証できる。

 そういう生活が長く続き、特にそのことは不思議にも思わなくなったのだけど、先週の日曜日にふと窓に目をやると初めて隣の部屋の中が見えた。最初は開かずのカーテンがついに開いたのかと思ったのだけど、ただ開いているだけではなくてカーテンそのものが吊られていなかった。その奥の部屋の中にもなにも家財道具が置いていなかった。どうやら隣人は引っ越したらしい。魚のシールも剥がされていた。たぶん僕がその窓を見ておらず、ししゃもを焼いたり、ソファで「エリア51」を読んだり、シャツにアイロンをかけたり、風呂に入ったりしているすぐそばで、隣人はあの魚のシールを剥がしたのだ。シールを剥がした魚の形に跡がこびりついていたので、「剥がすのにはそうとう苦労したのだろうな」と僕は考えた。シールは貼るのは簡単だけど剥がすのが大変なのだ。でもそれも清掃業者がやってきてきれいになった。

 しばらくしてまた新しい隣人が入居した。今度の隣人は真逆で、いつもカーテンを全開にする人だった。最初は「新しい部屋にきたばかりで、きっとまだカーテンのもちあわせがないんだろうな」と思った。実際に僕もこの部屋に住み始めたときにはカーテンがなく、二週間ぐらいカーテンのない部屋で暮らしていた。今考えると信じられないけれど、一人きりの人間というのは期限付きであればたいていの状況は乗り越えられるのです。ただ、隣人はカーテンをもっていないわけではなさそうだった。ちゃんとカーテンはあるのだけど、それを常に開けっ放しにしているのだ。すべての窓のカーテンが常に開けられていた。ひとつの窓から室内に飛び込んだ僕の視線が、別の窓からまた反対側の室外の空間に抜けて行った。常にというのは誇張ではなくて、本当にすべての時間帯なのだ。部屋の主が寝ているときも開いている。

 僕は毎朝自分の部屋のカーテンを開けて隣の窓にはりついた魚のシールを眺める習慣があったので、つい隣の部屋の窓に目をやってしまう。今度の隣人はお世辞にもきれい好きとは言えず、飲み終わったビールの空き缶や食べ終わったカップラーメンの残骸が机の上に放置されているのが見えた。灰皿はいつ見ても煙草の吸い殻でいっぱいだった。いわゆる無頼な独身男性を絵に描いたような部屋だ。洗濯物はあまり干されず、干されても物干し竿の右側に妙に偏ってぶら下がっていた。

 ちょうどこちらから見た視線の先にテレビが置いてあった。テレビからは、その映像をこちらに見せつけることを目的にここへ引っ越して来たのではないかと勘ぐってしまうぐらい、いつもいつもバラエティ番組が流れていた。たくさんの芸能人たちが隣の部屋のテレビの中でしゃべっていた。24時間その窓は開いており、テレビはつけっぱなしだ。「同じ人間でもこれだけの差があるものなのか」と僕は思った。そしてこれが不思議なのだけど、それだけつつ抜けの部屋であるにも関わらず、隣人の姿を僕の目が捉えることは一度もなかった。僕も四六時中窓に張りついているわけではないからそんなこともあるのかもしれない。でもそこにはなにか隣人の意図があるように思えた。

 そういう新たな隣人をむかえて一ヶ月ぐらい経ったころ、僕は「自分が隣人から悪意をもった攻撃を受けている」と感じるようになった。そう感じ始めた理由はわからない。窓を無防備に開け放しているという点で言えば、むしろ隣人は防御力が低い状態のはずなのだ。僕は彼の死角をついて、通常であれば得られない彼のプライベートな情報を(別に望んでいるわけではないけど)得ている。だから、もしもどちらかに決めろと言われれば、彼は攻められる側であり、僕の方が攻めている側であるはずだろう、と思う。すくなくともその逆ではないはずだ。これははっきりしている。にもかかわらず僕は、一連の彼の行動を僕個人に対する挑発行為のように感じ始めたようだった。僕は疲れていたのだろうか?

 理由がわからないままに、僕は隣人からの攻撃に対抗する手段の検討を始めた。手始めに使わなくなった果物ナイフを台所から持ち出してソファの下に隠し、いざという事態に備えた。しかし武器としては長さと強度がが不十分であるような気がしたので、ホームセンターに行ってバールを物色した。ニュースで報道される「バールのようなもの」を手に入れようと思ったのだ。でも実際にもって見ると重すぎるし、サイズが大きすぎて室内での戦闘には不向きであるような気がした。振り上げたときに照明を割ってしまうかもしれない。それで鉄製のスパナをひとつ買って帰った。重さも硬さも大きさも手頃だ。殴りつけることもできるし、投げつけてもいいだろう。スパナは机の下に隠し、すぐに取り出せるようにした。そして安心して眠りについた。

 ゆっくり寝て起きて朝になったらスパナのことはどうでもよくなった。なんでスパナなんか買ってきたのかわけがわからない。たぶん寝不足だったのだ。朝飯は冷蔵庫に残っていためざしを焼いて食べた。外を通る猫のためににぼしをいくつか置いた。スパナは靴箱の一番下にほうりこんだ。それで隣の部屋のことは気にならなくなった。