テレビを見ない

 自分の部屋にTVがない環境で育ったので、TVをつけて時間を過ごすという習慣がない。日に一度もつけない。だから芸能人とかTV番組の話題にとてもうとい。大学生のころに優香の顔がわからなくて恥をかいたことがあった。名前は聞いたことがあるし、顔を見せられればどこかで見たことがあるような気がするのだけど、その二つを照合することができないのだ。これはまずいと思って学習のためにTVをつけてみたけれど、登場する華やかな人々は誰一人として名札をつけていなかったので混乱が一層深まっただけだった。

 一人暮らしを始めてから液晶テレビを買ったけど、そんなわけでほとんどいつも死んだように沈黙している。映画を見たり、ゲームをするときだけつける。それ以外の時間はパネルにぼんやりと僕の部屋が映っている。その黒い板と向かい合う格好でソファに腰掛けて一人で夕飯を食べていると、「2001年宇宙の旅」に出てくるモノリスとか、ジョージ・オーウェル「1984年」のテレスクリーンを前にしているような妙な気分になる。いったいなんだって僕は40インチもある液晶テレビを買ってきたんだろう。昔の自分は理解に苦しむことばかりする。

 でも一年に一回ぐらいの割合で、ふと指が向いて日曜の夜にサザエさんをつけてみることがある。そういう見方をすると、たぶん毎週見ていては気がつかないような変化を見つけることができる。先週の日曜日にその「サザエさん・デイ」が訪れたので、僕は一年前との差分を観測した。聞き覚えのないBGMは去年見た時よりもまた少し増えていたし、カツオが赤いセーターを着ていてびっくりした。僕の記憶する限りでは、赤いセーターを着たカツオなんてこれまでに一度も見たことがない。なにより全然似合っていなかった。それはあの家の住人にはビビッドすぎる色合いだったのだ。

 でもきっとカツオのセーターの色を決めている会議があって、そこで赤い色を提案した人がいて、それを承認した人がいたんだろう。その中の誰かがなにかの間違いでこのページを見るかもしれないのでもう一度念のため書いておくけれど、カツオに赤いセーターは全然似合っていなかった。

オート・ロックのドア

 マンションの入り口から表に出ようとするとオート・ロックのドアが開かなかった。頭上を見上げるとセンサーのようなものがあったので、それが故障しているのかもしれないと僕は考えた。横を見ると別の住人が配電盤をしげしげと眺めてこの問題について調査をしていた。しかしコミュニケーションを始めるためのうまい枕言葉が思いつかなかった。相手は僕に気がついていないようだったので、とりあえず息を殺して部屋へ引き返した。
 
 引き返しても意味がないのだ。僕は外へ出たいのだ。玄関を見るとゴミ袋を置き忘れていた。そういえば今日は燃えるゴミの日だった。僕はそのゴミ袋をもって外へ出て、再びオート・ロックのドアの前までやってきた。配電盤を眺めていた住人はいなくなっていた。
 
 事態が解決していたとは考えにくかったが、僕はためしにゴミ袋をもってドアの前に立ってみた。するとドアが開いた。僕は安心してゴミ置き場にゴミを捨てて出かけた。

 用事を済ませて部屋に帰ってきたあとでティッシュを切らしていたことに気がついた。それでコンビニに行くために一度脱いだコートをまた羽織って外へ出た。でもまたオート・ロックのドアが開かなかった。僕は首を傾げた。配電盤を見てみたが、関係がありそうには思えなかった。
 
 「ゴミ袋がないと開かないのかもしれない」と考え、僕は部屋に引き返した。でも捨てるべきゴミはもうない。朝捨てたばかりだからだ。僕は新しくゴミ袋をひとつ広げて、いつか捨てようと思っていたいくつかの賞味期限切れの調味料や古くなった野菜を放り込んだ。そして口を縛ってそれを片手に持ち、ドアの前に立った。ドアは開いた。僕はゴミ袋を持ったままコンビニに入り、五箱がセットになっているティッシュを買った。若いアルバイトの店員はずっと怪訝そうに僕の手のゴミ袋を見ていた。
 
 次の日に見るとセンサーは新しいものに取り替えられていた。やはり故障していたらしい。それでオート・ロックのドアはいつも通り問題なく開閉するようになった。

近所の中華料理屋

 もうずいぶん慣れてしまったけど、過剰な接客とかサービスを受けることがとても苦手だ。物事が過剰であるという線をどこに引くかは人によって違うけれど、僕は昔からそれがとても低い位置に設定されている人間らしい。

 どれぐらい苦手かというと、大学生の頃に女の子と二人で牛角の扉をくぐって「はい喜んでー!」という威勢のいい声を聞いた途端、不愉快になってすぐに店を出てしまったことがあるぐらい苦手だ。あらためて文字にしてみると、連れ立って飯屋に入る相手としてこれほど不安な人間もいない。でもしょうがないのだ。牛角はおいしいと評判だったので、僕だって食べてみたかった。おあいこだ。

 近所の中華料理屋の話だ。大森駅からすこし歩いたところにある、古い中華料理屋だ。
 
 僕は舌が馬鹿なので、昔から飯を食ってもうまいのかどうかがよくわからない。なにを食ってもだいたいおいしいと思うので、あんまり興味もない。食い物のことについて本とかテレビとかインターネットを見ながらどうこう話している人が隣にいるときは、静かに席を立って移動することにしている。

 そんな男の偏見で言うと、その店ではうまくもまずくもない普通のやきそばが出てくる。麺とキャベツがとても短く切ってあって食べやすい。ウスターソースみたいな水っぽいソースで味がつけてある。紅しょうががわりと気前よく乗っている(僕は紅しょうがが大好きだ)そんなところだ。他にもメニューはいっぱいあるが、やきそばしか頼んだことがないので知らない。

 しかしこの店はサービス・レベルが非常に適正なのだ。過剰さが一切ないし、不足しているところもない。入ってカウンターに座ると、おばちゃんが視線をテレビにやったまま水を出してくれる。おすすめのメニューを案内されたり、「ご注文はお決まりでしょうか」と急かされることはない。その空間をひとつのシステムとして捉えるならば、誰かが注文をせず雨宿りのために端の椅子に永遠に座っていてもエラーとして検知できないという致命的なバグを含んでいるといえる。もしこれがしゃれた喫茶店だとMacbookをもって居座る人間があらわれるかもしれないが、きっとそんなことをしたらスティーブ・ジョブズに呪われるだろう。これほどapple製品が似合わない空間もいまどき珍しいからだ。

 店内の配置も絶妙だ。カウンターテーブルの中に絶妙な角度で液晶テレビが配してあって、絶妙な音量で音が流れている。おかげで目のやり場に困ることがない。常連客がいるときは店主夫妻はとても楽しげに客と会話しているが、僕とは目があったことすらない。あまりにも注意を向けられないので、まるで自分がH.G.ウェルズの小説に出てくる透明人間になって誰か他人の家の食卓に紛れ込んだような錯覚に陥る場合もある。

 うまくもまずくもない普通の飯が出てきて、用があるときは呼んだらすぐに答えてくれて、金さえ払えばなにも考えずにただ座っていることができる。そもそも僕が飯屋に期待している機能はそんなものだ。終始ニコニコと笑顔を浮かべた異様に愛想のいい店員は別にいらないし、気さくで軽妙なトークを繰り出してくる妙にアットホームな若い店員もいらない(他人の食卓に上がり込んでいるみたいという意味では、ここも十分アットホームではあるけど)

 でもこの店で飯を食っていると、精神に不思議な回復作用のようなものが働く。コミュニケーションのためのコミュニケーションが一切存在しないせいかもしれない。コミュニケーションのためのコミュニケーションには、予算があまったから道路を掘ってまた埋め直す工事のような脱力感がある。飯時にまでそんな気苦労を背負い込むぐらいなら、多少味気なくても自動券売機で食券を買う方がまだいい。でももちろん、順番をつけるなら、必要十分なコミュニケーションを人間同士でとれるのが一番いいに決まってる。

 なにかのリハビリテーション施設とかにしたらいいかもしれない。今日もそこでやきそばを食った。紅しょうががうまかった。