洗剤に一般的な適量なんて存在しない

2014/05/05

 洗濯用洗剤に適量なんてものはないと思うのだ。パッケージの説明書きを読むと「洗濯物の量に対してこの分量を入れてください」と書いてあるけど、これがどうも信じられない。なぜかというと、汚れの質という視点が抜けていると思うからだ。ものすごく汚れたタオルと、今洗って一度手をふいただけのタオルが二つあったとして、きれいにするために必要な洗剤の量はもちろん違うはずだ。後者の洗剤はゼロでいい。だって今洗ったばっかりなんだから。これはちょっと極端な例だとしても、厳密に考えるなら汚れの度合いによって量を調整しないといけないはずなのだ。

 僕が洗濯用洗剤に適量がないと主張する理由はもうひとつある。これまでに洗濯で失敗をした経験がないからだ。ちょっと入れる量が少なかったとしても「今日は一日中、服がくさくてたまらない!」ということにはなった覚えがない。もしこういう失敗があれば「そうか、ちゃんと適切な量をいれないからきちんと服がきれいにならなかったんだな」と反省するのだが、そんなことには一度もなったことがない。においではなく、シミや汚れがとれなかったとしても、「ちょっと洗剤がすくなかったな。次はもっと洗剤をたくさん入れて洗い直そう」とは思わない。その部分だけ手でこすって洗って落とそう、と考える。誰だってそう考えると思う。だから僕は洗濯用の洗剤の量をいちいち測っていれない。儀式的にちょこっとたらすだけだ。賽銭箱に投げ入れる金額が5円か10円か、ぐらいの違いしかない。重要なのは程度の問題ではなくて、それがゼロではないことなのだ。

 どうしてそんなことを考えたのかというと、洗濯用洗剤が切れたからだ。朝起きて洗濯機を回そうと思って僕はいつもどおり洗濯用洗剤をちょこっとたらそうとした。けれど洗濯用洗剤は思ったよりも残りがすくなく、僕の想像する「ちょこっと」よりもさらにもっと少ない量しか残っていなかった。でも別にいいのだ。上で書いたように、洗濯用洗剤には適量はないのだ。僕の気分でいつも入れている「ちょこっと」も、残りが少なくて仕方なくそれですませた「ちょこっと」も、どちらかが正解ということはない。メーカーが規定する量よりはどちらも少ないのだ。全然問題じゃない。服もくさくない。

 僕は洗濯機を回してリビングに戻って椅子に座った。やることが思いつかなかったので立ち上がって、床にヨガマットを敷いて腹筋をしてみた。2、3回腹筋をしてみたけど、全然腹に力を入れる気分にならなかった。力をいれようとするのだけど体がぐにゃぐにゃして、無理に緊張させようとすると笑い出しそうだった。しかたなくヨガマットをまた丸めてクローゼットの中に戻した。また椅子に座った。それからやはり考えをあらためて立ち上がり、回っている洗濯機を止め、上着をはおって洗濯用洗剤を買いに行った。

 買ってきた詰め替え用パックの封を切って、空になった容器の中にまた洗濯用洗剤を入れた。一ヶ月か二ヶ月かの時間をかけて定期的にすこしずつ減っていった洗濯用洗剤がまたいっぱいになった。きっと近い未来にまた中身がなくなったときは同じことをするのだ。それを考えると面倒くさいな、と思った。一回や二回ならいいけど、これ、一生際限なくやり続けないといけないことなのか? 21世紀なのに? 僕は自分がこの行為をやらなくてもよくなる状況を考えてみた。そういうことを喜んで引き受けてくれる人と結婚するか、なんらかの幸運に恵まれてお手伝いさん的な人を雇う金銭的な余裕が生じた場合か、あるいは自分が死んだ時という三つの状況が思いついた。思いついたのだけど、それ以上その考えは発展していかなかったので、三つとも忘れて洗剤をすこし追加し、また洗濯機を回した。