洗面台の排水口が詰まって水が流れなくなってしまった。たしか冬の終わりごろだ。最初のうちは放っておくと少しずつ流れていったのだけど、いつのまにかまったく流れなくなった。このまえ二回目の更新料をとられたからもう4年以上住んでいる部屋だけれど、こんなに完璧に詰まったことはこれまでに一度もなかった。なにか原因があったのだろうか、それとも時間の蓄積によるものなのだろうか。夜寝て朝起きても水量はぴくりとも減らない。
それで仕方なく、一時的な代替案として、台所で手を洗ったりうがいをしたりしていた。牛乳やお茶を飲むためのマグカップでうがいをするのは、理由は説明できないが後ろめたい気分になった。はやく排水口をなおさなくちゃいけないと思っていた。でもおっくうで手をつける気にならず、しばらくそのまま生活を続けた。独り暮らしの生活では、一度固定されてしまったものは半永久的に固定されたままなのだ。
とはいえいつまでもそのままにしておくわけにもいかない。いちいち洗面台から歯ブラシを抜いて台所にもっていくのは面倒だし、鏡がないから顔を洗うときに自分の顔も見えない。うちにだってたまには来客もある。人が来るたびにいちいち説明するのも面倒だ。だから次の日曜日に排水口を直そうと思った。決意を固めるためにカレンダーに赤ペンで丸をつけた。
日曜日になったので僕は作業を開始した。日曜日だし、さっさと終わらせて買い物にでも行こうと思っていたので、朝の9時から作業を始めた。
手始めに使い古した歯ブラシを突っ込んでみたが、まったく手応えがなかった。水を流しながらすこしこすれば流れるかもと考えたのだけどまったくだめだった。それどころか流した水がすぐに水たまりになった。濁った水を眺めながら「まあそんな簡単にすむとは思っていなかったさ」と僕は独り言を声に出してから次の作戦を考えた。一度手を洗おうと思ったが、排水口が詰まっているので台所で手を洗った。洗い終わって洗面台に戻ってもまだ水は引いていなかった。いい考えはなにも浮かばなかったし、歯ブラシでこすったときに腕が疲れたので、僕はため息をついてひとまずお茶を飲むことにした。飲み終わってソファに横になったらいつの間にか寝てしまった。春なのだ。
目が覚めると昼過ぎだった。
洗面台の排水口はあいかわらず詰まっていた。いったいこの穴の奥でなにが起こっているのか、僕にはまったく想像できなかった。いつかニュースで、「地面の奥の方で木の根っこがパイプのどこかを突き破って水の流れを塞いでしまった」という話を聞いたことを思い出した。もしそうだとするととても僕の手には負えない。
でももうすこしなにか試してみようと思ってパイプユニッシュを買いに行った。家族連れで賑わう日曜日のスーパーマーケットで僕はパイプユニッシュを買った。「レジ袋はいりますか」と聞かれたときにイエスと答えたつもりだったのだけど、なぜかレジ袋はもらえなかったので、むきだしのパイプユニッシュを手にもって家まで帰った。
パイプユニッシュのパッケージには分量の説明がいろいろ書いてあったが、読むのが面倒だったので排水口にひとびん全部流し込んでしばらく待つことにした。三十分ほど放置しようと思い、そのあいだ月刊アフタヌーンを読むことにした。シドニアの騎士は相変わらず面白かった。めぼしい漫画を読み終わってから洗面台に戻って水を流してみたが、水は1ミリも流れなかった。もうすこし時間を置こうと思って、月刊アフタヌーンのいつもはあまり読まない漫画までゆっくりと時間をかけて全部読んでから洗面台へ戻ってきたが、やはり水は流れていない。
打つ手がなくなった僕は水道業者の電話番号をインターネットで調べた。番号をiPhoneに打ち込み、発信アイコンの上に親指の腹をおしつける前に、しばらく業者のことを頭の中でシュミレーションしてみた。水道業者。もしかすると水道業者はとても横柄な態度の人物で僕を不愉快にさせるかもしれない。あるいは水道業者は、こちらの無知につけ込んで法外な値段を要求するかもしれない。排水口の詰まりを取り除く作業の相場がどれぐらいなのかを僕は知らない。あるいは水道業者は(自分はいろいろな家の排水口の詰まりを毎日毎日なおす仕事をしているということは棚に上げて)いい大人がひとりで排水口の詰まりもなおせないことを心の中で蔑むかもしれない。
結局、電話するのはやめて自分でなおすことにした。なにも水道業者だって魔法を使ってなおすわけではないのだ。僕にだってきっとなおせるはずだ。
排水口の下の棚を開けるとU字型のパイプがあって、何カ所かボルトを緩められそうなところがあった。ためしにそこを緩めると、当たり前のことだけど、汚水が一気に溢れ出た。その頃にはもう疲れて思考力がきれていたらしく、そんなことになるなんてまったく考えもしていなかったので、僕はしばらくびしょびしょのまま呆然とした。しかしとにかくパイプを取り外すことができたので、それを風呂場にもっていって洗った。どうしてそんな構造になっているのかわからないけれど、パイプの一部分が妙に狭いつくりになっていて、そこに汚れが詰まっていたのだ。歯ブラシでその汚れを取り除いて、飛び散った汚水を拭いて、ボルトを元通り閉めた。それでためしに水を流してみると詰まりはすっかり解消していた。水はまったく滞ることなく地下へとまっすぐに流れて行った。
作業が終わって時計を見ると夜の10時半だった。風呂に入って歯を磨き、コップ一杯水を飲んで眠った。日曜日。僕の日曜日。