美容院に置いてある雑誌

 美容院で髪を切られているときにだけ雑誌を読む。服とか芸能人とかが載っている雑誌だ。普段は読まない。雑誌を読んでいれば美容師が話しかけてこないので楽だから読む。でも美容院に置いてある雑誌はたいてい全然面白くない。いろいろな服が紹介されているけど、それを見せられた僕はどうすればいいのかがよくわからない。これが通販のカタログなら気に入った服を注文すればいい。しかしこういう雑誌の場合はまずその入手方法を検討するところから自分でやらないといけない。面倒くさすぎる。その服を買うとか買わないとかいう発想の切り口がそもそも間違いで、世間のファッションセンスの潮流を学べということなのか。僕は最近ジョルジョ・デ・キリコの画集を買ったけど、確かにそれをめくりながら「この絵はどこで買えるんだ?」とは考えない。そういうことなのか。どっちにしろ面白くない。しかし刃物を持って背後に立っている知らない人と話をするよりは、買えないシャツを眺めているふりをしている方がましだ。

 で、読み進めて行くとそのうち活字のページが出てくる。だいたい「こうやって異性にもてよう」というメッセージが書いてある。そういうページを見るといつも思うのだけど「どうやって他の男と差をつけるか」という問題を考えるための情報源として、男性陣に向けて発信された雑誌ほど無意味なものはないと思う。差がつかない。ではどうすべきかというと、女性向けの雑誌を読むべきだと僕は小学生の頃から主張し続けている。女性雑誌の方には「VS男性」という視点で一般化された情報が書いてある。これ以上に敵の手の内を知る有効な手段があるだろうか。ない。戦争論を読んでいなくてもそれぐらいはわかる。そういう女性雑誌の記事にばっちり共感・納得してしまうタイプの女性を対象と設定することが個人的に善きことなのかどうかという問題が次にあるのだけど、すくなくとも男性向けの雑誌を手に取るというのはアプローチとして第一歩目から間違っていると思う。

 髪を切られている最中には「美容師+客」でチームを組まされて隣のチームと会話の盛り上がりっぷりを競争させられているような錯覚に陥ることがあるのだけど、僕はだいたいこういうことを考えているので会話の役には立たない。上で書いた理屈を力説した挙げ句、女性雑誌を持ってこられたりしても困る。そういうことは全然望んでいない。今回僕の隣に座っていた別のチームは花粉症の話で多いに盛り上がっていた。女性の客が前髪を切られながらものすごく楽しそうに笑っていた。どうやったら花粉症の話題で女性をあんなに笑わせることができるんだろう。僕のパートナーの美容師も二人ぐらい芸能人の名前を挙げて僕に話しかけて来てくれたのだけど、僕はどちらも知らなかった。黙って髪の毛を切られて、頭を洗われて、金を払って店を出た。

独り言をいう老婆

 近所の公園でぼんやりしていたら噴水を挟んで反対側のベンチに座った老婆が独り言を言っていた。こっちまで聞こえるほど大きい声で言っていたわけではない。手話で言っていたのだ。僕は大学のサークルで手話をやっていたことがあるので手話を読むことができる。だから水音に邪魔されずそれが読めた。手話は「てにをは」に相当する表現があまり明確ではなく、文脈や役割を空間に配置することによって単語間の意味をつなぐのだけど、距離が遠くて細部は読み取れなかった。単語を羅列するとだいたいこんな感じだった。

 「記憶」「とても」「記憶」「あなた(ここで噴水のそばにいた少女を差した)」「たくさんの場所、記憶」「母親、一緒に」「記憶」「しかし」「水、記憶」

 記憶が多かった。あるいは思い出か。単語を文にしようと考えてみたがうまく意味がまとまらなかった。独り言だから意味なんてなかったのかもしれない。それとも独り言じゃなくて手話の練習をしていたのだろうか。白髪が腰まで伸びたお婆さんだった。髪型だけを見ると路上生活者の風情だけど、着ている服や鞄は奇麗で高級そうな物だった。世間には素性のわからない人がたくさんいる。

 それはそれだけの話なのだけど、22歳の頃にやはり見知らぬ老婆から「キサマの十年後が見てみたいもんだな」と唐突に声をかけられたことをふと思い出した。僕が知る限りでは「キサマ」という二人称を使う人間はデビルサマナーの葛葉キョウジとこの老婆だけだ。踏切の真ん中ですれ違ったときだった。夕方だった。僕は大学生で、ジーンズにサンダルを履いていて、レンタルビデオ屋で借りたライフ・イズ・ビューティフルのビデオと夕食の唐揚げ弁当を手に持って部屋に帰るところだった。

深夜の工場に連れて行かれる話

深夜の工場に連れて行かれる話 日常的に誰かと飯を食ったりどこかへ出かけたりする習慣をもたない。人と会って飯を食ったりするのは非日常的な場合に限られる。なにかしら個人的に心なり状況なりが振れていることがあるから友人に会って飯を食ったりどこかへ行ったりするのであって、その逆じゃない。暇だから人を集めてゴルフをやってみても終わったあとになにかが前進しているようには思えないのだ、いまのところは。腕を競うというよりもみんなでなにかを確認する作業をやっているように思えるのだけど、なにを確認すべきなのかがよくわからない。そうすると居場所がない。居場所がないと僕は困る。みんなも困る。そういう状態が経験的に身に染みているのでもう端から断ってしまう。

 世の中の会合に日常的な会合と非日常的な会合の二つがあるとすれば、僕は前者に参加せず、後者の方に進んで乗る。不思議なもので、ゴルフの誘いに乗るタイプの人は非日常の匂いが含まれている誘いには乗らない。たとえば深夜、唐突に誰かからメールが飛んでくるような種類の誘いにはゴルファーは参加しない。もちろん突然の誘いだから仕事や家庭の都合と調整をつけるのが難しいのだろうと思う。誘う方もそういうのはわきまえているので断ったって後腐れはない。でもそれだけが理由じゃないような気がする。きっとよくわからないものに対する嗅覚が鋭いんじゃないだろうか。ちゃんとメールの文面からそういう匂いを嗅ぎ分けるのだ。

 で、僕は僕で匂いを嗅ぎ取るのだけど、そういうのに乗ってしまう。そういう匂いのする会合こそが本当に意味と目的のある会合だと考えているので、必ず乗る。棲み分けがしっかりできている。役割分担。餅は餅屋。そういうことを繰り返していると、なぜだかわからないが深夜の工場に車で連れて行かれることが多いのである。こう書くとなんだか怖いな。別にそこで殴られたり沈められたりするわけじゃなくて、「ちょっと深夜の工場にドライブに行かないか」と誘われることが多くなるのだ。「適当にドライブに行かないか」と言われて車を走らせているうちにいつのまにか深夜の工場に向かっているというパターンもある。とにかく結果的に僕は工場に連れて行かれる。深夜の。

 一時期、工場の写真を撮影するのがちょっとブームになっていたような記憶がある。写真集を本屋で見た気がする。そういう背景があって行き先に工場が選択されるのかもしれない。そのブームがなかったとしたら「深夜に工場に行こう」というのはもっと怖い誘いに聞こえるかもしれない。たとえば「森に行こう」と相手が言い出したら怖い。でも「深夜の森ブーム」が起こったあとでなら、深夜の森いいね、なかなか洒落ている、と思うかもしれない。そういうこと。なんにしろ、僕は工場が好きなので結構なことだ。工業地帯で生まれ育ったので落ち着く。誰もいないし、大きな人工物がちゃんと動いている(ように見える)ところがいい。けっこう近くまで寄って行って見れるところもいい。パイプを触れたりもする。動物園で象を見るのもいいけど、ダイナミズムでは工場も負けていない。

 それで工場をうろうろと徘徊して、ラーメン屋なりファミレスなりで飯を食って帰ってくる。そんな経験がこれまでに四回あった。直接つながりのない四人の友人が、僕を夜中に召還して深夜の工場に連れて行ったのだ。その状況にはもうひとつ共通点があって、四回とも特に会合の趣旨や動機については触れずにただくだらないことを喋りながら工場に行って帰ってきた。でもあとになって(場合によっては年単位であとになって)誘った相手が「実はあのときにはこれこれこういう個人的な問題を抱えていて、どうすべきかちょっと悩んでいた」みたいなことを言うのだ。そのときに言えよ、と思うのだけど、誰もそのときには言わない。みんなあとになってから言う。からくりがわからない。世の中にはわからないことがたくさんある。