電子レンジもってない

 「電子レンジをもっていない」と誰かに言うとかなり高い確率で驚かれるということを発見した。しかもすごく驚かれる。ときには電子レンジについてのお互いの考え方の違いから、ちょっと口論めいた状況になりさえもする。電子レンジは世の中にすごく浸透しているようだ。

 僕は間違えてホームサイズの背の高い冷蔵庫を買ってしまったので部屋に電子レンジを置く場所がない。床の上とか服入れの上に置くこともできるのだけど、やはり電子レンジは冷蔵庫の上に置いておくのが機能的に考えて妥当だと思う。そういう空間的事情から購入を保留しているうちに時が矢のごとくガンガン流れていって電子レンジのない生活にすっかり馴染んでしまった。電子レンジ不在の生活の中に長らく身を置いてあらためて考えてみると、電子レンジというのはけっこう奇妙な装置だと思う。原理がさっぱりわからない。原理がわからないということで言えば冷蔵庫が冷える原理だって電話で誰かの声が聞こえる原理だってわからないけど、電子レンジのわからなさはそういうわからなさとはちょっと質が違う不気味さがある。物を冷やそうという欲求から冷蔵庫が作られるのは、まあわかる気がする。電話も受話器の形を見れば言わんとしていることが読み取れる。ところが電子レンジは物をあたためるという目的に対してなぜそういう形で解決をもたらそうと思ったのかが全然わからない。右足を動かそうと思ったら左手が動いているような、入力と出力のちぐはぐさを感じる。箱というところが手品的なのか。あたため終わってすぐ中に手を入れてみても内部の空気は全然あたたかくないところが不気味だ。スイッチを入れると内部がライトアップされるところも不気味だ。あの光であたためているわけじゃないんだろうから、あたたまっていく食品の過程をよく見せるためだけに光をつけるんだと思うんだけど、なにか悪趣味な機能のように感じませんか。僕は感じる。種も仕掛けもありませんよ、と言われているような気がして。電子レンジに。電子レンジに?

 この「電子レンジもってない話」をすると、僕と個人的に仲がいい人間ほど「電子レンジがない生活なんて不便すぎる。買った方がいい。今すぐにでも」と強く勧めてくるのも不思議な現象だ。その勢いに面食らって自分が怒られているような気分になることもある。電子レンジと親密さに相関関係があるというのはなかなか興味深い。たぶん一般性はないと思うけど、僕の場合で言うと、相手の「電子レンジもってない反応」の温度と僕との親密さがかなり正確に比例しているような気がする。

 電子レンジをもたない生活のよい点を紹介すると、食事の作り置きや冷凍食品に対する依存が自然になくなる。量も一度にたくさん作れないので、食事をちょうど一人分だけうまくつくるスキルが身につく。習得が難しく実用的だが、わびしいスキルではある。

卵を割るのがへたな友人

 友人の家に遊びに行って昼食をごちそうになった。不運なことに雨が降っていたので傘をさしていったのだが、僕は傘をさすのがおそろしく下手なので友人宅につくころには下半身がほとんどずぶ濡れになっていた。玄関口でそのことを謝罪し、タオルを借りて水気をよく拭いた。本当に傘の扱いが下手なのだ。ほとんど頭しか守れない。

 そのことを説明をすると友人は「僕も卵を割るのが下手で困っている」と言った。「人にはそれぞれ苦手なことがあるもんだ」と僕はてきとうなことを言ってあがりこんだ。台所で昼食の用意をしてくれている友人が「ちょっと見てくれないか」というので僕は肩越しに彼の手元を覗き込んだ。火にかけた鍋と銀色のボウルと生卵があった。日頃からてきとうな相づちばかり打っているので一瞬わけがわからなかったが、彼は卵を割るところを僕に見てほしいらしかった。話がまだ続いていたのだ。

 でもそんなに言うほど下手ってことでもないだろうと思った。だって卵を割るだけだぜ。ジョジョの第4部で川尻浩作になりすました吉良吉影がやったみたいに、鮮やかに片手でバカバカ割ろうというわけでもあるまい。普通に机の角にぶっつけて割ればいい。そう思って見ていたのだけど、確かに彼は卵を割るのがおそろしく下手だった。最初の一つは机の角にぶつけたときに中身が飛び出した。二つ目は逆に力が弱すぎてヒビが浅く、鍋の中に落としたときに細かいカラが大量に入った。おかげで湯を沸かし直した。三つ目はまた机の角にぶつけたときに中身ごとつぶれた。二回目ぐらいまでは笑っていられたのだけど、笑えなくなってきたのでかわりに僕が割った。

 それから二人で月見うどんを食べてモンスターハンターをやった。僕は部屋の隅に座り込み、彼は一人掛けのソファに座ってしばらくモンスターを狩った。どうして彼がわざわざ卵料理を用意しようと思ったのかが気になって集中できなかったが、それでもモンスターはうまく狩れた。大量にモンスターを狩ったあとにお茶を飲み、すこし近況を話してから礼を言って彼の家をあとにした。外にはまだ雨が降っていたので、帰り道でも僕はびしょ濡れになった。水深が胸まである川を歩いて渡って来たぐらい濡れていた。電車の中で他の人を観察してみたが、他にそんなに濡れている人は誰もいなかった。

ビニール傘という製品には根本的な問題があると思うのだ

壊れた傘 ビニール傘という製品には根本的な問題があると思うのだ。すぐこういうふうになっちゃう。ちょっと強い風が吹いたら、もう本当にすぐだ。さし方が悪いのだろうか? 僕もこれまで自分なりにいろいろと傘のさし方を試行錯誤してきた。でもだめだ。向上する気配がないどころかどんどん下手になっているような気さえする。子供の頃には傘を壊したという記憶はない。余計なことは考えずに無心でさした方がいいのか? でも風の強い日は同じように壊れた傘が道端にうっちゃってあるのを見かけるから、たぶん僕固有の問題ではないんだろう。きっと傘の方に主たる要因があるはずだ。

 ビニール傘の厄介なところは壊れたらゴミ箱に捨てるというわけにはいかないところだ。ビニール傘は壊れると一瞬にしてなんの役にもたたない上にとんでもなくガサばるゴミになる。それを廃棄するためには家に持って帰って(当然、雨が降っているのだから、新しい傘をもう一本買ってさして帰る必要がある)ビニールの皮みたいな部分を剥ぎ、燃えるゴミと燃えないゴミに分別して捨てないといけない。一人暮らしの男が夜中に玄関先で傘の皮を剥ぐというのはなかなかこたえる作業だ。人目をはばかり家畜の死骸を解体しているようで気が滅入る。しかもやる羽目になるのは決まって雨の日だ。

 安いビニール傘を使うのがいけないんだろうか? デパートで売ってるようなちゃんとした傘ならこんなに簡単に壊れないんだろうか? でもこれだけ負の経験を積み重ねると、高いちゃんとした傘を買う気にはどうもなれない。どうせすぐ壊れちゃうような気がする。ただ、道端に壊れて捨ててあるのはビニール傘ばかりだから、もしかするとちゃんとした傘を買えばそんなに簡単には壊れないのかもしれない。あるいはただ単にビニール傘を使っている人の母数が多いせいで捨てられている本数も多いだけなのかもしれない。
 
 とにかくこんなに壊れやすくてものすごい大きさのゴミになるものが一般的なアイテムとして大量に生産・流通しているというのはひどく間違った状態なのではないだろうか。こうしている間にもどこかの森の木がばっさばっさ切られているのではないだろうか。地球はどんどん温暖化しているのではないだろうか。今日は1日で2本壊した。あまりにも風が強かったからだ。ビニール傘は壊れるとうまく丸められなくなる。どんなにがんばって丸めても、会社を辞めるときに送別会でもらう花束ぐらいの大きさに膨らんでしまう。だから仕方なく両手に壊れた傘を持って濡れて帰って来た。3本目を買う気にはなれなかった。壊れた傘は2本とも玄関先で皮を剥いだ。誰かなんとかしてくれ。日本の傘担当は誰なんだ。