漫画の記憶

 シャンクスが山賊に絡まれて頭から酒をかけられるけどそれをいなすシーンがとても好きだ。ワンピースの一番はじめの話だ。高校の運動会のときに誰かが観戦席に持ち込んでいた単行本が回ってきて、8巻ぐらいからカウントダウンで逆順に読んだ記憶がある。そんなふうに読みたくなかったのだけど、運動会が暇すぎて気が狂いそうだったのでそうせざるをえなかったのだ。当然の事ながら、僕は普通、漫画でも本でも1巻から順番に読むように努力する。でも、どうしようもない事情があって話の途中からそこに至るまでの経緯を推測しながら読むというのも、やり終わってみるとなかなか悪くない体験のように思う。旅先で暇をもてあましてキオスクで買ったジャンプで読んだ漫画もその話だけいつまでも妙に憶えていたりする。

 kindleを買ってから漫画を気軽に買うようになったので、途中で読むのを止めていたワンピースをまた読み始めたのだけど、仲間が増えるたびにビールで乾杯するのがどうにも興醒めでまた読むのをやめてしまった。なんで漫画の中でまで歓送迎会みたいな面倒事を見せられなきゃいけないのだろう。でもみんなワンピースが好きみたいだ。みんな歓送迎会でビールでカンパイするのが好きだからワンピースが売れてるのだろうか。「こいつらもこいつらなりに人付き合いとかいろいろ大変なんだな」と共感しているのだろうか。よくわからない。

 ジョジョを最初に読んだのは子供の頃に誰かの葬式に連れて行かれたときだった。そのとき買い与えられたジャンプにはヴァニラ・アイスにアブドゥルが殺される話が掲載されていて、なんだかわけがわからない気分になった。「アブドゥルはこなみじんになって死んだ」というヴァニラ・アイスの台詞と、「シューシュー」という肉の焦げる音の書き文字が添えられたアブドゥルの切断された両腕は鮮烈に憶えているけれど、自分が参加したのが誰の葬式だったのかは憶えていない。高校の修学旅行に行くとき友達が買ってきたジャンプには、るろうに剣心の薫が殺される「人誅」のシーンが掲載されていた。見開きでヒロインが殺されている絵を朝の新幹線のホームで見た。それを買って来た友達はコンビニのビニール袋にパンツと歯ブラシだけ入れて片手に持っていて、もう片手にそのジャンプを持っていた。その荷物で二泊三日をやりすごすというのはなかなかいい度胸だ、と思った記憶があるが、その修学旅行で自分がどこへなにをしに行ったのかは全然思い出せない。僕の記憶力は斑気がひどすぎる。

紫色の装丁の本

 本はまずハードカバー版で出版され、しばらくすると文庫版が売られるようになる。そういう世の中の仕組みを僕がまだ知らなかった子供のころに、近所の図書館で二冊の本を読み比べた記憶がある。装丁は異なるが、どちらも同じタイトルの二冊の本。題名は忘れてしまった。文庫版の方を途中まで読んでいたのだけど、別の本棚でハードカバーの同じ名前の本を見つけたので、いったい中身にはどういう違いがあるのかを調査してみようと考えたのだった。

 もちろん文庫版が出版されるときにいくつか修正が施される部分はあるだろうし、あとがきなどが増えていたり挿絵が変わっているということはある。とはいえ、話自体が大きく変わってしまうようなことはない。当たり前だ。しかしどういうわけか、その時に手に取ったハードカバー版の内容は途中からまったく別の話だった。どういうふうに異なっていたのか具体的には思い出せない。船が出てくる冒険物の小説だったような気がする。とにかく本のちょうど真ん中あたりで、ハードカバーと文庫版で話の筋ががらりと変わっていたのだ。その本は友達が勧めてくれた本だったので、読み終わったあとになにか感想を言わなければならない。でもその友達がどっちのバージョンを読んでいるのかわからなかった。それで結局、共通している前半部分の内容を口にしてごまかした。

 そういうことがあったので、それから数年の間は同じ本でもハードカバーと文庫版では内容が全然違う物だと信じていた。きっと出版したあとに一度だけ内容を変更するチャンスが著者には与えられるのだろうと考えていた。そうじゃないことにはっきりと気がついたのは高校生になってからだ。あの本はいったいなんだったんだろう。ハードカバーの方は紫色の装丁だった。百人一首を入れておく箱みたいな、和紙みたいな装丁だった。

東京のワンルームの部屋で猫を飼うことについて

 猫を飼ったことがない。飼ってみたい。真剣に飼おうかどうか考えている。猫がいる生活とはどういうものだろうか?

 仕事から帰ってきた僕は部屋の窓を開ける。夕食の支度をしていると、いつのまにか窓の隙間から猫が入ってきてソファの上に座る。僕は自分の夕食をテーブルの上に置き、ついでに銀色の皿を床に置いてそこに牛乳を入れる。でも猫はすぐにそれを舐めにこない。僕が夕食を食べ終わり、片付けをしてシャワーを浴びて出てくると皿は空になっている。猫は僕の代わりにちょこんと椅子の上に座っている。僕は猫を放っておいて布団を敷いて寝る。

 翌朝になると布団の中に猫がいる。僕が布団から起き上がって歯を磨いて部屋に戻ってくると猫はいなくなっている。外に出て行ったようだ。空になった銀色の皿を洗って、僕は仕事に行く。猫に名前はない。ホリー・ゴライトリーもハルハラ・ハル子も言うように、飼い猫には名前をつけたくないのだ。

 たとえばこのような風景だ。
 
 しかし現実的に考えてみると、この生活と実際に僕が自分の部屋で猫を飼う状況のあいだにはずいぶん差がある。まず、猫を自由に出入りさせると部屋の中がどろどろになってしまう。窓際に水を張った洗面器とタオルを置いておくと自分で足や体を奇麗に拭いてから入って来てくれるのであれば助かるのだが、そうはいかない。それにそんな猫はなんだか気持ちが悪い。全然かわいげがない。衛生面の問題だけでなく、エサの問題だとか、近所の他の猫との関係性なども問題になるはずだ。外猫には外猫の、家猫には家猫の躾がきっと必要なのだ。

 じゃあ部屋の中だけで飼えばいいじゃないか、と考える。実際にマンションの部屋でそういう飼い方をしている人もたくさんいる。でも、僕は用事があって外に出かけなければいけないこともあるわけで、そのあいだ猫をどうしておけばいいのかがわからない。たとえば部屋の電気はつけておくべきなのかだろうか。猫を飼っている人たちはみんな外出中も猫のためにずっと電気をつけっぱなしにしておくのか? それとも電気を消してしまっても猫はぜんぜん平気なのか? どっちにしても外出中に部屋のことが気になりすぎる。だめだ。猫が好きで猫を飼おうとしているのに、暗い部屋の中で寂しそうに丸まっている猫のことを心配するような事態に陥るのは本末転倒だ。

 もちろん広い庭がある田舎の一軒家に住んでいれば話は別なのだろうけど、主人の方がそれこそ猫の額みたいに狭い部屋をやりくりして住んでいる状況ではやはりうまい解決策が出てこない。悩んだ末、猫を飼うことをまた却下する。ほんとうに飼いたいんだけどな。