緑地でジョギング

 最近、近所にある緑地をジョギングしている。コースを一周するとだいたい1.5kmになる。

 学生のころはとにかく体育が大嫌いだった。しかし今あらためて考えてみると、僕は学校の体育の授業の様式や、自分が苦手な特定のスポーツについて不満をもっていただけで、運動そのものが嫌いかと考えると、その理由は特に見つからなかった。また、これまでもこれからも座り仕事をしている人間として、「運動をしないといずれ足腰が弱ってしまうのでは」という漠然とした思いを僕は抱いていた。30歳というのは肉体を考え直す一つのよい節目のように思えた。それでなんとなくジョギングを始めた。

 実際にやってみるとジョギングというのはなかなかいいものだった。お金もかからないし、場所もそれほど選ばない。道具も靴があればいい。なによりも一人でできるのがいい。それに比べて複数人が集まらないとできないスポーツを趣味にするのは大変だ。忙しい友達たちの時間を調整して、たまの休みに場所を確保して遠くまで出かけて行ったりしないといけない。道具を揃えるのにお金もかかるし、かさばる道具を使うスポーツなら車も回さないといけないかもしれない。

 また、ただの趣味として楽しむわけなので、それぞれの参加メンバーたちがそのスポーツにかける情熱の度合いもまちまちになる。よって、あまり重たく聞こえない「ドンマイ」と、適度な軽妙さをもった「ざけんなよ」を状況ごとに使いこなして、各自が各々の判断で場をコントロールする必要がある。しかし僕は昔からその二つの言葉を適切に発声することがとても苦手だった。僕の「ドンマイ」は離婚した直後の親友の両手をしっかりと握りしめて激励する声のように聞こえるし、「ざけんなよ」は死神が静かに肩を叩く音のように響くのだ。発声する状況の判断が間違っているのか、声質が悪いのか、なにか根本的に心構えのようなものが足りていないのか、その原因は定かではない。

 一人で走る分にはそのような心配をする必要がないのがよい。離婚も死神も無縁だ。しかし習慣的に運動をせずに座り仕事ばかりしている僕は体力がなく、最初は緑地を1週しただけで息切れがしていた。宇宙船の中で100倍の重力で特訓した孫悟空レベルの体力がなければ2週目に突入することは難しいように思えた。だからまあ嫌になったら歩こうという程度の腹で緑地へ出かけた。

 しかし、2週間ほどそれを続けるといつのまにか僕は2週走るようになっていた。きっと次は3週走れるだろうと思っていたら、なぜか3週を飛ばして4週走っていた。どうして3週が飛んで4週なんだろうと考えているうちに、6週走っていた。どうやら僕は、1をのぞく奇数を飛ばして周回数を増加させていく傾向があるということが判明した。しかしどうして自分が奇数を飛ばすのか、理由がわからなかった。それで僕はいつも偶数と奇数のことを考えながら走るようになった。どちらかといえば、僕は奇数という概念の方が好きだ。必ず奇麗に二つに割れる偶数というのは、人を言いくるめるためにうまくできた訓話のようで、どうも裏でなにか企んでいるように感じるのだ。

 偶数と奇数のことはともかく、ジョギングは金がかからなくていい。もし次に引っ越すとしても近場に緑地がある場所にしよう。