おでんと葡萄ジュース

ティファニーで朝食を 2013年の元日の夜は一人でおでんを食べながらミニッツメイドの葡萄ジュースを飲み、ブックオフで安く買ってきた「ティファニーで朝食を」を読んで過ごした。年季の入った文庫本でずいぶん紙が焼けていたためそのぶんだけ値引きされていたようだった。ランダム再生していたiTunesからパッヘルベルのカノンが流れ始め、でたらめな夕食をシュトゥットガルト室内管弦楽団が静かに盛り上げてくれた。まるで楽器を抱えた楽団の人々がドアを開けて僕の部屋に入ってきて生演奏をしてくれているみたいな音の聞こえ方だった。ちょうど年末にスピーカーを新調したところだったのだ。

 食べ終わって洗い物をしているときにこの時間の過ごし方について振り返ってみると、鏡餅やトルーマン・カポーティに申し訳ないような気分になった。いくらなんでも時間や物事の組み合わせがちぐはぐすぎた。しかしやってしまったことはしょうがない。どういうわけかおでんを食べていたら葡萄ジュースが飲みたくなったのだし、手元には一冊しか本が転がっていなかったのだ。他にやりようがない。いくら孤独に耐性があるといっても正月から机の前の白い壁紙を一人で見つめたままおでんを食べるのは避けたい。

 おでんとジュースはおいしかったし、「ティファニーで朝食を」は面白かった。特に「ハロウィン」という言葉の後ろにカッコで訳注の解説文が入っていたところがよかった。奥付を見ると昭和43年に出版されて昭和63年に改版された文庫本のようだ。たしかにその頃子供だった僕も、ハロウィンが説明抜きで通じるほどメジャーなイベントになるとは思っていなかった気がする。あと、この小説の主人公は、ちょっと口にしかけた話を「これはここで語っても無意味な話だろう」みたいに思わせぶりな感じで端折っていく癖があるのだが、最後の方で突然「このアパートにお化けが出るので近々引っ越すつもりだ」みたいなことをちらっと言っているのが妙にひっかかった。話す気がないならわざわざ最後のページでそんなこと言わなくたっていいじゃないか。おかげで本筋よりもその省略されたお化けの話の方に興味が行ってしまった。

この記事は予約投稿で公開されている

 このブログはWordpressというオープンソースのブログ・ソフトを使っている。Wordpressには予約投稿機能というのがあって、その機能を使いたいために選んだ。僕にとってはとにかくこの予約投稿が重要なポイントだった。

 予約投稿とは、未来の日付と時刻をあらかじめ設定しておくとそのタイミングで記事が公開される機能のことだ。なぜそれが必要なのかというと、公開ボタンを押した瞬間にインターネットにすぐに公開されてしまうという挙動が嫌いなのだ。書いている途中で操作を誤って公開してしまうかもしれないという現実的な運用の問題も一つの理由だが、根本的な問題はもっと精神的なところにある。記事を公開するたびに「いったいどうしてこんなことを全世界に向けて発信しなくちゃいけないんだろうか」という身も蓋もない疑問が振り払えない場合があるのだ。一度そういうことを考え始めると「このテキストはどこかで誰かの役に立つのだろうな。もしも役に立たなかったらひどいぞ。覚えてろよ」という脅迫観念が、クリックする人差し指の上にずしりとのしかかってくるように感じるときがある。

 しかし一方で、僕が好きなのは何の役にも立たないくだらないテキストだ。「役に立つ文章」という言葉には「役に立つ友達」と同じような、なんだか信用しにくいニュアンスが含まれているように思えるのだ。僕は個人的でくだらない出来事が書かれた、冗長で古くさいテキストを読むのも書くのも大好きなのだ。「スキマ時間を活用するための三つの方法」よりも、誰かがどこかで転んだとか、冷凍庫に入れたまま忘れていたアイスが入っているのを見つけてうれしかったとか、そういう個人的な出来事を記したテキストの方が僕を幸せな気分にさせてくれるのだ。でも僕がみずから進んでインターネットに記事をアップロードするという行為は、そのくだらなさに水を差してしまうようにいつも思えた。「これから面白いことをやります」と宣言してから芸人が踊り始めるのと同じように、なんだか白けた気分になるのだ。それでいつも公開ボタンの上で僕の指は止まっていた。

 また、投稿時間の問題もあった。たとえばこの記事を書いている現在の日時は2012年10月10日の午後10時24分だが、もしここで記事を書き終わって公開ボタンを押すと、「どうして3つも10が並んだ日時にわざわざこの記事をアップロードする必要があるんだろう」ということを考えてしまうことがある。こういうことを考えだすと数列というものにはきりがなく、やはり下書きフォルダに記事が溜まって行く一方だった。

 しかし、今は予約投稿を使って毎週日曜日の深夜0時に更新するようにしている。そう定めてしまうことによって、この二つの悩みから僕はすっかり解放された。時間のことは規則だから気にしなくていいし、僕が押すのは公開ボタンではなくて予約ボタンだからだ。記事を書いたことを自分でもすっかり忘れた日曜日の夜に突然僕のサイトが更新されていると、誰かがどこかでくだらないことを書いたのを発見したような、不思議な距離を感じることができた。そんなふうに自分でしかけたくせに自分でびっくりする体験はなかなか悪くなかった。でもなんだか、心理的な構造だけに注目すると、戦闘機を無人にすることで良心の呵責に悩まされずモニターのむこうから爆弾を投下するのに似ているような気もした。まあ僕がやっているのはくだらないテキストをくだらないブログに上げるだけだ。きっと困る人はいないだろう。

 ある日曜の夜も、やはりこの予約投稿機能がうまく作動して自動的に記事が投稿された。しかし僕はそのとき友人とお酒を飲んでいた。ちょうどなにかの話の流れで僕のブログを開いてみようということになり、友人がiphoneでこのサイトを開いた。すると友人は記事が更新されていることに驚いた。

 友人は「どうやっていまブログの記事を更新したの?」という質問をした。僕はこの予約投稿機能のことを説明した。でも相手はあまり情報技術を信用していないタイプだったようで、どこか半信半疑だった。相手は「もしかすると全然ちがう人が更新してるんじゃないの?」ということを言った。言うまでもなく、僕のブログにくだらないテキストを投稿しても誰もなにも得をしない。僕がそのように説明すると相手は納得した。

 しかし、相手と別れて一人で乗り込んだ最終電車の中で自分のiphoneを使ってこれまでに書いた記事を見返してみると、だんだんそれらが自分で書いたものではないような気がしてきた。いったいどうしてパラレル西遊記の三蔵法師がどうこうなんてことを手間暇をかけて書いてインターネットにアップロードしてしまったのか、自分でもわけがわからなくなってきた。

 僕は「これはアノニマスの仕業ではないか」と疑ってみた。しかしアノニマスの誰かがパラレル西遊記のワンシーンに僕と同じ特別な思い出をもっている確率は低いように思えたし、それを僕のブログに投稿する理由も思いつけなかった。家に帰った僕は口をゆすいでから倒れるようにして眠った。夢の中に顔のない男が出てきたので、僕は疑ってしまったことを一言詫びた。男はなぜか白いハンカチを僕に渡して帰って行った。

アイロンとアイロン台

 アイロンをかけていると毎回必ず考えることがある。

 僕は無印良品で買ってきたアイロンとアイロン台をずっと使っている。ペアで使う物はペアで作られたものを買うという自分なりのささやかなこだわりに従って買ってきたアイロンとアイロン台だ。機能性だとかデザインがいいとか、そういう理由で無印良品のアイロンを選んで買ったわけではない。セットで売っていればなんでもいい。

 問題はそのアイロンを買ったのが渋谷の無印良品であるということだ。もう4年ぐらい前になるが、西武の地下に入っている無印良品はとても混んでいた。レジには気の遠くなるような行列ができていて、アイロンとアイロン台を持ってその列に並んだのを憶えている。たしか冬だった。前に立っている男の人が毛糸の帽子をかぶっていた。帽子の両脇の生地はあごの下まで垂れ下がっていて、てっぺんはすこしあまっていた。どうしてこんなお婆ちゃんがかぶっているような帽子を若い男の人が好き好んでかぶっているんだろう、と思いながら立っていた記憶がある。

 渋谷は僕の家からそれほど近いわけではない。混んでいるところは嫌いだから、用事がなければ足を運ぶこともほとんどない。だからきっと東京の中心にほど近いこの街ではこういうファッションが流行の最先端で、おかしいのは自分のセンスの方なんだろうと思った。そう思って辺りを見回すと、店員さんも行列している人々も、全員がファッション・モデルのようにお洒落に見えてきた。僕はジャージの上にくたびれたダウンパーカーを羽織っており、靴は汚れたスニーカーを履いていたので、だんだんそこに並んでいるのが申し訳ない気分になってきた。そのことが原因で自分の順番が来てもアイロンとアイロン台を売ってもらえないんじゃないかとすら思った。だから僕は「せめて仕事に着ていくシャツにぐらいはアイロンをかけたいんです」という言い訳を頭の中で考えながら並んで順番を待った。順番が来ると「無印良品のレジで人に物を売るのが楽しくてしょうがない」というような笑顔を浮かべた女性店員が丁寧に対応をしてくれた。僕の服装については何も言われなかった。

 なぜこの記憶が問題なのかというと、最初の方で書いたように僕は用事がなければ渋谷に買い物には行かないし、アイロンは近所の行き慣れた街でいくらでも買えるからだ。同じ無印良品だって家の近くにある。それなのにどうしてそのとき僕はわざわざ渋谷の無印良品にまで出かけていってアイロンを買ってきたんだろう? ついつい足を運んでしまうような思い入れのある街ではないし、何か用事で出かけたついでに買ってきたとも思えない(だってアイロンとアイロン台だぜ)まったく理由が思い当たらないのだ。そんな重くてかさばる荷物、インターネットで買って届けてもらえばいいじゃないか。でも渋谷で買ったんだから、きっと僕はその大荷物を抱えて電車に乗って帰ってきたんだと思う。

 そんなことを考えているうちにアイロンをかけ終わってそのことは忘れるのだが、次の土曜日の朝にアイロンをかけ始めるとまたそれを初めから考えることになる。この前、ボタンダウンのシャツの襟を伸ばしているときに何か手がかりをちょっとだけ思い出せそうな気がしたのだが、結局思い出せなかった。