湯たんぽをもてあます

 この冬のいつだったか、あまりにも寒い日があったので湯たんぽを買った。暖房ばかりつけていると頭がぼんやりするし、たまにはそういう古き良きグッズを使うのも悪くないと思ったのだ。買って帰ってお湯を入れて膝の上に乗せてみると暖かかった。悪くない。

 暖まりながら説明書をぱらぱらとめくると使用上の注意が書いてあった。使用する際には低温火傷に注意しなければいけないようだ。使い方の説明は容器にお湯を入れる絵と蓋を閉める絵の二枚が淡白に並んでいただけだったが、その注意事項の部分の記述は長々と、ほとんど病的といっていいほど執拗に、あらゆる語彙を総動員していかに低温火傷がおそろしいものかということが書かれていた。ページは下手なハードボイルド小説顔負けの付帯事項で埋め尽くされていた。ただし、ただし、ただし。びっしりと小さい文字が並んだ紙はそれ自体がなにか強力な負の力を発しているみたいに見えた。それで気になってインターネットで調べてみると、低温火傷の恐ろしい話が山ほどでてきた。だんだん湯たんぽを乗せているふとももの皮膚が痛痒くなって来たような感覚があったので、僕は湯たんぽをそっと膝からおろして机の上に置いた。まあちゃんと気をつけて使えばいいさ。よく読んでから使おう。

 しかしどのように気をつければ良いかということになると、その説明書にはどうにも歯切れの悪い記述しかなかった。考えてみると、たしかに湯たんぽの運用には一般化するには難しそうな変動要素がいくつもあった。何度ぐらいのお湯を入れるのか、どれぐらいの時間使うのか、肌と湯たんぽを隔てるものはなにか(タオルなのか、タオルだとすればどれぐらい厚いタオルなのか)、そして使用する人の肌の弱さはどれぐらいなのか。結局読み終わってもどのように使えば安全であるのかがよくわからなかった。わかったのは、これは try & error のアプローチが取りにくい類いの問題であるということだけだ。失敗しないように気をつけないといけないし、もし失敗したら取り返しが使えない。僕は低温火傷というものをそのように理解した。ひととおり悩み終えた頃には机の上に置いた湯たんぽはすっかり冷えていた。

 結局、湯たんぽは一度お湯を入れたっきり使わなくなってしまった。湯たんぽは僕の生活のサイクルにうまく入ってこなかったのだ。残念ながらこれから先も使われないだろう。もしかすると「せっかく買ったんだから」と情けをかけてもう二回ぐらい使ってみるかもしれないが、そんな使い方をされるのは湯たんぽだって癪なはずだ。湯たんぽにも湯たんぽなりの誇りがきっとある。しかし、だからといってすぐに捨てる気にはなれない。なにしろまだ一回しか使っていない。

 それに湯たんぽという言葉を聞くと、僕の頭には、足が遅いせいでいつも学校でいじめられて泣いている小学校低学年の男の子の姿が思い浮かぶのだ。なんの因果でそんなことになってしまったのかよくわからないが、「湯たんぽ」という名称のラベルを頭の中の変なところに貼ってしまったらしい。困ったことだ。そうするといよいよ捨てるのが忍びなくなってくる。だからといって誰か知り合いに譲り渡すというのもなんだかお互いに薄気味が悪い。三十路の男が湯たんぽを誰かに譲る話なんて、想像しただけで日本の不景気に拍車がかかりそうだ。

 そんなわけで、もう二ヶ月ぐらい湯たんぽをもてあましている。どうしたらいいのか見当もつかない。玄関の靴箱のそばに置いてあって、紺色のセーターみたいなニットにくるまった湯たんぽはいつもそこで肩身が狭そうにしている。がんばれよ湯たんぽ。大人になったら走ることなんかねえよ。お前だってそのうち足が遅いことなんかすっかり忘れて、インテリの匂いをちらつかせて女を口説くような嫌な男になるに決まってるんだから。

赤いクレーン

 都内にあるビルの休憩室で時間をつぶさなければならない事情があって、窓際の椅子に座って外を眺めていると外で大掛かりな工事をしているのが見えた。工事の中心地点には一本背の高いクレーンが立っていた。いかにも工事現場らしいくすんだ赤色のクレーンだ。僕がいる部屋はビルの8階にあったのだが、クレーンにもちょうど同じぐらいの高さの位置に運転席みたいなものがあり、そこからクレーン本体と同じぐらいの長さの腕が右に向かって伸びていた。先端からはまっすぐ下にワイヤーが伸びていて、地面に近いところで何本か鉄骨が吊られている。なにを作っているのかはわからないし、クレーンの役割もわからないけれど、端から見ていると誰かが大掛かりなUFOキャッチャーで遊んでいるみたいに見える。
 
 窓の外から目を離して携帯電話を操作し、コーヒーを一口飲んで、机の隅に置いてあった旅行のパンフレットをいくつかめくってみて、それからもう一度窓の外を見るといつのまにかクレーンが左を向いていた。さっきとはまったく逆方向だ。そんなに大きな物がそんなに早く動くということが実感できなかったので僕は自分の記憶を吟味してみたが、やはりさっきまでクレーンは右を向いていたように思えたし、僕が目を離していた時間は二、三分ぐらいだった。

 あらためて操縦席のところを見ると小さく人影があった。操縦席はなかなか広く、ちょっとした喫煙室よりも広い空間がありそうだ。内部は暗くてよく見えないが、本棚やダイニング・テーブルがあってもおかしくないぐらいの広さに見える。きっと一人きりだろうし、入ってしまえばなかなか落ち着けそうだ。もし僕があそこで仕事をすることになったら、退屈なときには大声で歌を歌ってみたりするかもしれない。でもクレーンには気の遠くなりそうな長さの梯子が地上からその運転席までまっすぐに伸びていて、どうやらそれを使わないと運転席には入れない仕組みのようだった。あの運転手にもし子供がいたら、子供の写真をお守り代わりに懐に入れて毎日上り下りしたりしているのだろうか。微笑ましいのか憂鬱なのかよくわからない話だ。

 僕と運転手はどちらも地面からの高さがちょうど同じぐらいのところにいたので、僕はためしに自分が手元のレバーを操作して地面に置いてある鉄骨を引っ張り上げるところを想像してみたが、うまく想像できなかった。実際に自分があの操縦席のレバーを握って鉄骨を引っ張り上げたとしても、実感としてその手触りを感じられるようにはどうも思えない。運転席とその鉄骨の間にはそれぐらい距離があった。しかしもちろんその赤いクレーンは操縦席で操縦されているはずなので、そこに実感が湧かないというのはおかしいのだ。想像力が事実に追いついていない。それは「コントローラーを操作してテレビ画面の中にいるCGの大きなモンスターを倒すことに実感が湧かない」という話とはわけが違うのだ。僕は自分がクレーンの操作を誤って鉄骨を遥か下の方に小さく見える人にぶっつけてしまうところを想像したが、そんなひどいことになったとしても自分の手と出来事のあいだの連続性を把握する自信はなかった。距離や大きさというものには注意が必要だなと僕は思った。

 話は変わって、大学の友人が電車の運転士をやっているそうだ。僕がいつも乗っている電車を知り合いが運転しているかもしれないというのは妙な気分だった。乗っている人間は電車を運転している人間がどこかにいるなんて考えもしないのだ。端の車両に乗ったときにガラス越しに運転席を覗き込んでみたが、毎日毎日一日中そこに座っているというのがどんな人生であるのかまったく想像できなかった。すくなくとも地下鉄よりは地上を走る電車の方が気持ちはよさそうだ。でもどちらにせよ、机の上にペプシのおまけについてくるおもちゃを並べてコレクションしたりはできそうもない。

 ただ、クレーンや電車みたいなものを動かせるというのはなかなかわかりやすい大人の形のように思えた。自分は一人前の大人であり、毎日こういう仕事をしているのだ、ということを多くの言葉を費やして説明する必要がない。クレーンがなにをつくっているのか知らなくても、クレーンを動かしている姿というのはそれだけで十分に仕事のように見えるからだ。子供や家族に仕事のことを説明する義務をもたない僕も、自分自身に対して自分の仕事を説明しなければいけない日がある。そういうときに自分がクレーンや電車を動かすことができればもう少し話はわかりやすいのだが、あいにく僕の仕事はそのように外面的な特徴を備えていない。キーボードを叩くのが人よりも多少速いということを持ち出すぐらいしか手はないのだが、僕は昔からタイピングが速かったので、その事実はあまり役に立たない。

 そのあたりまで考えたときに「なにを考えているんですか」と隣に座っていた後輩に聞かれたのだけど、この一連のことをどのように説明すればいいかよくわからなかった。それで僕は「旅行に行こうかと思っていてね」と言って置いてあったパンフレットを適当にひとつ示した。後輩はその旅行のパンフレットに興味をもったようだった。どこかの島と青い空の写真が表紙のパンフレットだった。

とうふを食べる話

とうふを食べる話 スーパーでとうふを買ってきてパックを開けて器に落とす。かたすぎない木綿がよい。やわらかすぎない絹でもいいかもしれない。くらべたことはないが僕は木綿だ。本当はとうふ屋さんで買ってきたらいいのかもしれないが、あいにく僕の家の近くにはとうふ屋さんがない。そういえばこれまでにとうふ屋さんでとうふを買ったという記憶もない。売っている商品がとうふだけなんて、いったいどれだけニッチな商売なんだろう、とうふ屋さん。逆Amazon。憧れる。とにかく、頃合いのいいおとうふだ。器は万能の白いプレート皿とか味噌汁用の器とかを使ってもいいけれど、せっかくだからいい感じの器を用意しよう。ちょっと手触りがざらっとしたようなやつだ。

 とうふを入れたらかつおぶしを一袋その上からかける。「ちょっと多いな」と思うぐらいの量をかけてしまう。しょうゆをかけてとうふを何口か食べたころには、かつおぶしはいつのまにかとけてなくなってしまうのだ。スパゲティにかけた粉チーズみたいに。かつおぶしはそういう種類の薬味なのだ。だから僕はとうふが見えなくなるぐらいかけてしまう。

 もし余力がある日にはそこへ玉ねぎを添えるとなおよい。しかしそうするのであれば剃刀のように薄くスライスした玉ねぎをほんのちょっとだけ盛らないといけない。玉ねぎとかつおぶしとでは量の調整が真逆なのだ。もしもカットがぶれて厚みができてしまったり、使い残すのをおっくうがって全部刻んで使い切ってしまったりすると、ものすごく辛くなってしまう。正確に包丁でカットをして、残った玉ねぎをしっかりとラップして冷蔵庫へ保存するだけの手間がかけられる自信が持てるときにだけチャレンジするのがいい。自信がないとだいたい失敗して、致命的なまでに辛くなってしまうのでやらない方がいい。

 最後にしょうゆをかけるとさえない男のささやかな夜食ができる。箸を口にくわえてそのざらっとしたお皿をリビングに持って行くと一層さえない気分になる。

 ふととうふの入っていたパッケージを眺めてみると、それは群馬県にある会社が生産したとうふだった。とうふというものがどういった行程で生産されているのかはわからない。経営的な理由があって会社の住所は群馬県だが、とうふ自体は都内で生産しているのかもしれない。しかし僕は便宜的に群馬県から大量にパッケージされたとうふがトラックで運ばれてくる様子を想像した。トラックが揺れるたびにとうふ達も荷台でぷるぷると(商品価値を損なわない範囲で)揺れるのだ。そうやって運ばれて来たとうふが大田区に住むさえない男の胃袋に入ると、その男は暗い部屋でキーボードを叩いてどこか遠くにあるサーバーへとうふの話を電子データとして転送し、その中で孤独に回転しているハードディスクの上に記録するというわけだ。不思議なものだ。